2023/11/4~11/27の24日間、一人で車中泊しながら長崎・五島列島の史跡名勝・温泉・道の駅を巡ってきました。

 

岡山県の自宅を出発し、3~5日目は長崎市街観光、6~10日目は五島列島・上五島を観光

11日目は、上五島のあこう樹、桐教会、米山展望台、フェリーで福江島へ移動して道の駅で車中泊

12日目は、道の駅から反時計回りで、辞本涯、教会めぐり、大瀬崎灯台、福江港、中央公園で車中泊

13日目は、続日本100名城・福江城跡、武家屋敷通り、ふるさと館、荒川温泉、道の駅で車中泊

 

16:00 道の駅「遣唐使ふるさと館」に到着しました。

ここで車中泊するのは、前々日につづいて2度目です。

 

 

13日目(11/16、福江島3日目)は、前夜車中泊した「中央公園」を徒歩で出発して、続日本100名城「福江城跡」、「武家屋敷通り」、「福江武家屋敷通りふるさと館」見学、車に戻って洗濯・昼食をして「荒川温泉」で入浴後、道の駅「遣唐使ふるさと館」で車中泊しました。

 

 

道の駅にある「万葉シアター」です。

遣唐使についての資料展示がしてあります。

 

 

「遣唐使と五島」の説明です。

道の駅のある、福江島・三井楽(みいらく)地区が遣唐使船日本最後の寄港地として果たした役割は大きく、柏崎(かしわざき)の港で飲料水と食料を補給し、船を整備して順風を待ち、そこから東シナ海を一気に横断するという、まさに「本涯辞す」(日本の最果てを去るの意)という思いで遣唐使たちが最後に目をした日本の地だったに違いありません。

とあります。

 

 

遣唐使船の模型です。

西暦630年より、260年間にわたって前後18回、唐(中国)に遣唐使を送った。遣唐使の主な目的は、唐文化の輸入であって、そのため幾多の秀才、名僧が選ばれて海を渡った。

遣唐使船を復元する技術資料はなく、現時点では想像するほかない。

この模型は、日中の文献、後世の絵画資料、中国宋代の発掘船などの諸資料を基に製作された。

と書かれています。

 

 

遣唐使年表です。

第1回(630年)から、中止となった第20回(894年)までのメンバー、航路、船数、帰国日、航路、備考が記されています。

 

 

私の地元岡山県の偉人・吉備真備も遣唐使として2回唐へ行っています。

1回目は、奈良時代の717年、第9回遣唐使の留学生として、同行した阿倍仲麻呂とともに唐で優秀さを知らしめました。

17年後の天平6年(734)帰途に就きましたが、途中で種子島に漂着し、翌年多くの典籍を携えて都へ戻りました。

 

 

2回目は、天平勝宝4年(752)、第12回遣唐使の副使として唐へ渡りました。

1回目の唐留学以降、順調に出世した吉備真備でしたが、権力を掌握した藤原仲麻呂により左遷させられたうえ、危険な航海を経て入唐しました。

翌年帰国し、大宰府で雌伏の後、70才で都に戻り藤原仲麻呂の乱を平定し、ついに右大臣にまで昇進しました。

 

 

空海(弘法大師)は最澄(伝教大師)とともに、第18回(804年)遣唐使として入唐しました。

2年後帰国し(下五島・福江島に漂着したとも言われる)真言宗を開きました。

 

 

遣唐使の航路図です。

北路、南路、南島路の3つのルートに分かれていました。

初めのころは、朝鮮半島の沿岸を航海する比較的安全な「北路」を取っていましたが、新羅との関係が悪化してからは、東シナ海を渡って揚子江の河口を目指す「南路」を取るようになりました。

また、風の影響で「南路」を取り損ねた場合には、薩摩から奄美大島など島伝いに航海する「南島路」をとることもありました。

 

 

夕食を求めに、道の駅近くのスーパーへ行きました。

福江中心地の大きなスーパーと違って品数が少なく、弁当や総菜がほとんど売れてしまっていました。

 

 

やむを得ず、持参したカップ麺とバナナ、ミカンのしょぼい夕食となりました。

 

こうして13日目が終わりました。

13日目の走行距離は44km、自宅からの合計距離は1155kmでした。

万歩計の歩数は14067歩、歩行距離は8.4kmでした。

福江城跡や武家屋敷通りを散策したので、目標の1万歩をオーバーしました。

 

 

車中泊していたのは1台です。

 

雨が本降りになってきたにもかかわらず、地区の若者が集まってBBQを始めて夜遅くまで騒いだので、車を建物から離れた場所に移動しました。

向こうに見える車は、その仲間の車です。

 

翌14日目は、時計回りに教会めぐりをして、温泉に入って道の駅まで戻ってきました。

 

     ーーー  つづく  ーーー