2023/11/4~11/27の24日間、一人で車中泊しながら長崎・五島列島の史跡名勝・温泉・道の駅を巡ってきました。

 

1日目は、岡山県の自宅から山口県まで行き、道の駅「きららあじす」で車中泊

2日目は、佐賀県まで移動して、道の駅「山内」で車中泊

3日目は、長崎県の佐世保港と長崎港で五島行きフェリー確認後、長崎「水辺の森公園」で車中泊

4日目は、長崎市内の眼鏡橋、オランダ坂、出島を観光後、「水辺の森公園」で車中泊

 

4日目(11/7)は、車中泊した「水辺の森公園」から、持参した折りたたみ自転車で、「眼鏡橋」、「オランダ坂」の次に「出島」へ行きました。

上図の緑色のラインで示しています。

 

 

国道沿いにある「出島」の「水門(すいもん)」にやってきました。

大きなオランダ船は沖に停泊し、積荷は小船で出島の水門へ運ばれました。

大正11年(1922)に「出島和蘭(オランダ)商館跡」として国指定史跡となっています。

 

 

説明板です。

「出島」は、江戸時代初期の寛永13年(1636)キリストの布教を防ぐ目的で、市中のポルトガル人を一ヶ所に集め、住まわせるために幕府の命により造られた面積15000㎡の扇形をした人口の島です。

寛永16年(1639)のポルトガル人退去後は一時無人の島となりましたが、同18年(1641)平戸のオランダ商館がここに移され、以来安政の開国までの218年間わが国で唯一西洋に向けて開かれた窓となり、海外から新しい学術や文化が伝えられました。

 

 

復元整備計画完成予想図です。

明治以降、出島の周辺の埋立てが進み、明治37年(1904)に完成した第2期港湾改良工事で海に浮かぶ扇形の姿は失われました。

長崎市では、昭和26年度から出島の整備計画に着手し、平成8年度より19世紀初頭の建造物復元や護岸石垣の顕在化等の整備事業に取り組んでいます。

 

 

「中島川」の向こうに出島が見えます。

 

 

江戸時代の護岸線は、上図の赤色の線でした。

明治21年(1888)の中島川変流工事により約18m削られて、川幅が広くなりました。

 

 

対岸に見えるのは、左から「新石倉」、「拝礼筆者蘭人部屋」、「三番蔵」、「二番蔵」、「一番蔵」、「一番船船頭部屋」です。

それぞれ復元整備事業で昔の姿を取り戻しています。

 

 

江戸時代の出島の様子です。

オランダの商館が置かれていた出島には高さ約30mの旗竿が建てられ、オランダ国旗がなびいていました。

出島の正面に位置する江戸町の護岸沿いには商家が建ち並び、活気にあふれ、その背後の丘の上には、出島の監視の役割を担った長崎奉行所西役所が置かれ、幕末には長崎海軍伝習所なども設置されていました。

 

 

出島表門橋です。

明治21年(1888)の中島川変流工事によって削られてから130年ぶりに完成しました。

江戸時代の石橋とは違い、史跡を守る最先端技術を採用した近代的な鉄橋になりました。

 

 

橋の向こうが表門です。

折りたたみ自転車を押して入り口まで行ったら、係員から「駐輪場がないので他所へ置いてきてください」と拒絶されました。

仕方ないので、出島の周囲を一周してから自転車を置いて出直すことにしました。

 

 

出島の左端(南東端)にあるのが「旧出島神学校」、その右が「旧長崎内外クラブ」で明治時代に建てられたものです。

 

 

説明板によると、

出島の南東端の道路の半分が出島の東側の範囲になります。

 

 

道路の左半分の塗装の色が異なるラインが出島の東端です。

道路下には当時の石垣の一部が残されています。

 

 

説明板によると、

出島の南側護岸石垣の東側端部分です。

 

 

右側が高さ1.2m、4段の石積みで、安山岩系の自然石や割石が用いられ布積み工法で積み上げられています。

石垣から左が海でした。

 

 

海だった場所から出島東南端部を撮影しました。

「旧出島神学校」とその左に「旧長崎内外クラブ」があります。

 

 

このあと「長崎港ターミナル」へ行って昼食にしました。

折りたたみ自転車を駐輪場へ置いて出直しです。

 

 

2日連続同じレストランです。

 

 

日替わり定食が売り切れだったので、豚丼+ミニ五色うどんのセット(750円)にしました。

本場の北海道・帯広で食べた豚丼には勝てませんでしたが、タレもよく効いていて美味しかったです。

 

このあと、徒歩で出島へ戻りました。

 

     ーーー  つづく  ーーー