2022/11/03~11/19の17日間、北は富山県・五箇山から南は愛知県・岡崎まで、北陸・東海地方の史跡名勝・温泉・道の駅を巡りながら一人で車中泊旅をしました。
1日目は、岡山県の自宅から京都府の舞鶴まで行き、道の駅・舞鶴港とれとれセンターで車中泊
2日目は、福井県へ移動して、道の駅・越前おおの荒島の郷で車中泊
3日目は、福井県の九頭竜湖を見学後、岐阜県の道の駅・白山文化の里長滝で車中泊
4日目は、岐阜県を北上して世界遺産・白川郷の道の駅で車中泊
5日目は、白山白川郷ホワイトロードを往復後、道の駅・白川郷で連泊
6日目は、白川郷を自転車で散策後、富山県・五箇山へ移動して、道の駅・たいらで車中泊
7日目は、世界遺産・五箇山の合掌造り集落を見学後、道の駅・アルプ飛騨古川で車中泊
8日目は、飛騨古川のまつり会館、市街散策し、道の駅・アルプ飛騨古川で連泊
9日目は、飛騨高山の高山祭屋台会館、高山城跡、古い町並散策し、道の駅・ななもり清見で車中泊
10日目は、飛騨・美濃せせらぎ街道を南下して、道の駅・古今伝授の里やまとで車中泊
11日目は、雨のため終日道の駅・古今伝授の里やまとで過ごしました。
12日目は、郡上八幡城、郡上八幡博覧館を見学後、古い町並を散策して、道の駅・美並で車中泊
13日目は、下呂温泉でまったりして、道の駅・半布里の郷とみかで車中泊
14日目は、愛知県移動後、続日本100名城の小牧山城、清洲城見学し、道の駅・瀬戸しなので車中泊
15日目は、長久手古戦場、桶狭間古戦場、岡崎城を見学し、道の駅・デンパーク安城で車中泊
9:00 愛知県長久手市の「色金山(いろがねやま)歴史公園」へやってきました。
羽柴(豊臣)秀吉と徳川家康が唯一直接対決した合戦「小牧・長久手の戦い」の際、徳川家康が陣を張り軍議を開いたとされる色金山です。
15日目(11月17日)は、前夜車中泊した愛知県瀬戸市の「道の駅・瀬戸しなの」を出発して、最初に「長久手古戦場」の一つである「色金山歴史公園」へやってきました。
色金山歴史公園の案内図です。
左下の駐車場から矢印に従って進むルートではなく、右手の方へ進んでいきました。
天正10年(1582年)の「本能寺の変」で斃れた織田信長の後継者争いに端を発した政争で、織田信長の次男・信雄(のぶかつ)に味方した家康は、天正12年(1584年)「小牧・長久手の戦い」で秀吉と直接対決しました。
八幡社(はちまんしゃ)旧跡碑です。
家康軍と秀吉軍は小牧でにらみ合いましたが、秀吉の別動隊の岡崎進軍を察知した家康は追撃し、天正12年(1584年)4月この色金山で軍議をめぐらし、出陣に際して八幡社で戦勝を祈願したと伝えられています。
八幡社は、明治44年(1911年)に廃社となりました。
長久手合戦慰霊碑です。
横に碑文がありました。
その碑文によると、
天正12年(1584年)3月に始まった「小牧・長久手の戦い」が、長久手において4月9日合戦となり、徳川・織田連合軍が勝利した。
この戦いの死者は三千人に達するとも言われる。
とのことです。
「進軍の道」を進んで、山の上を目指しました。
床几石(しょうぎいし)広場です。
家康が軍議の際に腰掛けたといわれる「床几石」を中心とする広場で、国の史跡に指定されています。
説明板によると、
天正12年(1584年)4月、小牧山で秀吉と対峙していた家康は、8日午後8時ごろ約9千の兵を率いて小牧山を出発し、9日早朝に色金山に兵を進めました。
家康は、この山上に金扇の馬標を立て四方を望見して軍議をめぐらしました。
その時家康が腰掛けたという逸話にちなみ、「床几石(しょうぎいし)」と呼ばれ崇められ親しまれてきた巨石です。
反対側に回って撮影しました。
何人が腰掛けて軍議をしたのでしょうか、4~5人程度しか座れそうになかったです。
床几石広場の隣にある「展望テラス」です。
戦国時代の砦を思わせる木製の展望台に上れるようになっていました。
大きくなった樹々に隠れてしまって、長久手市街の景色が良く見えませんでした。
別の道を下って、公園の正面に出てきました。
トイレの前の紅葉が鮮やかでした。
茶室があったので入ってみました。
愛知県犬山市の国宝茶室「如庵(じょあん)」を模した建物です。
緑から赤へのグラデーションが美しいモミジです。
お茶は有料なので茶室へは入りませんでしたが、お茶を習っている妻が同行していれば一服いただいたかもしれません。
このあと、長久手合戦の古戦場公園へ行きました。
--- つづく ---