2017年11月11日(土)のテレビ「世界ふしぎ発見!」で、「海を渡った幕末のサムライ」というタイトルで、郷土の偉人である「池田長発の遣欧使節団」のことを放送していました。

池田長発は、江戸時代末期の岡山県井原市の領主で、郷土の偉人の足跡を辿る旅をしている私にとって、大変興味のある内容でした。


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御存じ、毎週土曜日午後9時に放映している人気長寿番組です。



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池田 長発(いけだ ながおき、天保8年(1837年)‐ 明治12年(1879年))は、幕末の旗本で、備中国井原(岡山県)の領主でした。
つまり、わが郷土井原市の「お殿様」でした。


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備中松山藩初代藩主・池田長幸の三男・池田長信を初代とする井原領主の井原池田家の10代目にあたる池田長発は、幕末に外国奉行を務め、文久3年(1863年)から元治元年(1864年)にかけて、34名からなる遣欧使節団(横浜鎖港談判使節団)を率いてフランスを訪問しました。



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長発は27歳にして、34名からなる遣欧使節団(第二回遣欧使節、または横浜鎖港談判使節団)を正使として率いることとなり、1863年12月にフランス軍の軍艦ル・モンジュ号で日本を出た。上海インド等を経由し、スエズからは陸路でカイロへ向かい、途中ギザ三大ピラミッドスフィンクスを見学し写真を撮っている。
(Wikipediaより)


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今年の1月、池田長発と同じ場所に立ちたくてエジプトへ行ってきました。



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池田長発一行が宿泊したフランス・パリのグランドホテル(ル・グランホテル)です。



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5年前の2012年10月、私も池田長発が宿泊したグランドホテルの前まで行きました。
宿泊したかったのですが、格安ツアーではそれも叶わず、向かい側の香水店に寄ったときに写真だけ撮りました。



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元治元年(1864年)3月、パリに着いた池田長発一行は皇帝ナポレオン3世に謁見し、横浜鎖港の交渉をしましたが、あえなく失敗に終わりました。



イメージ 10西欧文明の強大さを認識した長発は、フランスとパリ約定を結び、他の国には寄らずそのまま帰路に着きました。



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長発は帰国後、開国の重要性を力説したが、幕府はパリ約定を破棄、長発の石高を半分に減らし蟄居を命ずる等の罰を与えた。
慶応3年(1867年)には一転して罪を許され軍艦奉行並となったが、健康を害していたため数カ月で職を辞して井原に戻り、以後政治にはかかわらなかった。
井原に学問所を作り青少年を育てることを構想していたが、明治12年(1879年)に没した。
井原陣屋の跡地に建つ井原市立井原小学校には生誕150年を記念して長発の銅像が立てられている。
(Wikipediaより)


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井原小学校にある、池田筑後守陣屋趾の碑と池田長発の銅像です。

池田長発が辿った横浜からパリまでのルートを辿っていくのが私の夢です。