健康で仕事もあって、雨風凌ぐ家もあって、お腹いっぱい食べられる。

それなのに、「飢えゲッソリ」ている感覚が付きまとう。

感謝すべきことばかりのはずなのに。

 

実際のところ、日々の生活の根底に感謝がある。それでも、「あぁ、わたしの人生、何か足りない・・・ショボーン」と、心が疼く時がよくある。有るものより無いものに目が行って、ションボリ旅への一歩を踏み出してしまう。

 

氾濫するリア充情報や、成功者の模型的な人々のインタビュー番組を見ては、「あぁ、自分には、あんなふうに一生かけて夢中になれるものは、見つけられなかったなぁ」と、絶望的な気持ちになる。

平常心の時はキラキラしている人も物も大好きだけど、ションボリしている時には猛毒だ。キラキラを吸収した時の副反応(=劣等感、絶望感、無気力感)は半端ない。

 

そんな時は、名もなき賢者の言葉を思い出すのだ。

「人生、夢も希望も不要!」 そんでもって、究極的には、

「死ぬまで生きれば、それでいい。」

 

成功も失敗も、誰かが決めた概念に言葉を与えただけのもの。そもそも、現象自体は、ゼロ。その現象があった、という事実があるのみ。

「今日は雨だ(=現象としてはゼロ)」 →「あぁ、嫌だな」(=自分で勝手にマイナスの判断をつけている)

 

プラスだマイナスだ、成功だ失敗だ、これは良いあれは悪いと、人間社会がその時々の文化的社会的価値観でジャッジしているだけの話し。

 

自分に焦点を戻すと、もともと、なーんにもしないでボーっとしていることが何より好きだった。でも、何もしないことは「悪い」とされ、頑張る事や役立つ事が「善い」という社会圧力に煽られ、怠け者の本性に鞭打って頑張ることを続けてきた。

頑張った結果、『社会に馴染んでます仮面』を獲得できた。

でも、思ったよりハッピーじゃない。立ち止まって振り返ると、頑張れば頑張るほど、自分の人生そのものは寂しくなっていった側面も多々ある。寂しいのは嫌だ。

 

もういちど、死ぬまで生きればいいというシンプルな原理に立ち戻って、自分の本性に素直に、ゆっくりダラりと、人の輪の中で、穏やかにしどけなく生きる方の道を、歩みなおそうと思う。

 

さようなら、頑張ることが目的の人生。