大錦 卯一郎 (おおにしき ういちろう)
葉巻とゆかりのある歴史人物を紹介します。
1917年から1922年にかけて第26代横綱として活躍しました。
雑誌「武侠世界」の表紙モデルともなりましたが、力士が葉巻を
咥えている姿はなかなか圧巻です。
入幕後わずか6場所目で横綱となるスピード出世で、優勝5回、
119勝16敗3分32休という成績を残しました。
(当時不戦勝という制度がなく、相手が休場だと自身も休場となり、
現在とは基準が異なります。)
ただ必ずしも身体的に恵まれていたわけではなく、相手への研究など
立会の工夫で勝ち星を上げたようです。
研究熱心さや「頭脳で取る相撲」から近代相撲の開祖とも呼ばれます。
相撲取りには珍しく酒は飲まなかったようですが、葉巻の愛好家で、
そのため表紙のイラストでも葉巻を咥えた格好となりました。
なかなかお相撲さんに大柄な葉巻というのも迫力があって良いもの
だと思います。
さて大錦卯一郎はもともとが関取の志望ではなく、軍人になろうと
していたようです。
旧制中学出身でスポーツ万能、特に水泳では大会優勝と優秀
でしたが、なんと陸軍幼年学校の受験結果は不合格でした。
それも理由が体重過多というのが何とも驚きです。
因みに陸軍将校の1/3を幼年学校卒業者が占めたこともあり、
もしも合格して軍人となっていたら、全く違った形で歴史に名を
残したのかもしれません。
稽古熱心さと入念な研究による本番での強さから人気を博しますが、
惜しくも突然の引退となってしまいます。
1923年の春場所を控えて横綱や大関を除く10両以上の力士たちが、
退職金の増額などを相撲協会に要求し籠城をするという「三河島
事件」が起こります。(力士会によるいわゆるストライキです)
大錦は調停を試みますが力士会・相撲協会からも拒絶されます。
結局は警視総監が仲裁を行い、円満解決へと至ります。
この時大錦は料亭での和解の宴会の最中に席を抜け、マゲを落として
現れました。「三河島事件」での調停失敗の責任をとって引退すると
表明したのです。
この場に居合わせた面々はさぞ驚いたことでしょう。
力士の頂点にある者として責任を取るとは、潔さが見事だと思います。
さらに引退後は角界に残ることはせず、旅館を経営しつつ早稲田大学
の政経学部に学び、報知新聞社の嘱託として相撲評論を行いました。
横綱に相応しい強さと心を持ち、さらには葉巻が似合うとは
現代では稀な男らしさの鑑と言えるでしょう。