初心に帰るに相応しい年始、私のしがない人生に決定的な影響を与えた
2つの言葉を取り上げ、自戒の機会とさせていただきます。
一人目は、詩人の金子光晴(1895-1975)。
高校一年の冬、この詩に出会い、はしかに罹ったように頭に血が上って以来、
いまだ完治していない気もします。
反対 金子光晴
僕は少年の頃
学校に反対だった。
僕は、いままた
働くことに反対だ。
ぼくは第一、健康とか
正義とかがきらひなのだ。
健康で正しいほど
人間を無精にするものはない
むろん、やまと魂は反対だ
義理人情もへどが出る。
いつの政府にも反対であり、
文壇画壇にも尻を向けてゐる。
なにしに生まれてきたと問はるれば、
躊躇なく答えよう。反対しにと。
ぼくは、東にゐるときは、
西にゆきたいと思ひ、
きもの左前、靴は右左、
袴はうしろ前、馬には尻をむいて乗る。
人のいやがるものこそ、僕の好物。
とりわけ嫌ひは、気の揃ふといふことだ。
僕は信じる。反対こそ、人生で
唯一つ立派なことだと。
反対こそ、生きていることだ。
反対こそ、じぶんをつかむことだ。
私は “働くこと” が大好きなので、この詩の内容を忠実に
実践しているわけではありません。
「反対」が私にもたらした最大の効用は、“常識や定説を疑うクセ” です。
但し、「大学卒業」の意義を疑った所為で大学を除籍になり、
「結婚」の意義を疑った所為で離婚したとも言えるので、
最近は諸刃の剣と自覚しています。
二人目は大西鐵之祐(てつのすけ/1916-1995)。
早稲田大学出身で、日本ラグビー界幾多の栄光を演出した名指導者です。
私が早大ラグビー部に所属していた当時は既に引退されており、
奥様の支えで月に数回、グランド脇のベンチで練習を眺めていた様子を
覚えています。
その当時手にした大西氏の著書『闘争の倫理』に、私の脳みそは
容赦なく攪拌されてしまいました。
“スポーツは、「ルール」とは別に「フェア」という概念がないと成立しない”
“「ルール」とは「してはならない」こと。「フェア」とは「すべきではない」こと”
“「フェア」の判断基準は、「その行為は、人間として美しいか?汚いか?」”
大西氏が本書で訴える「フェアプレイの精神」は、
私のすべての行動における信条となっています。
当時、『闘争の倫理』の得体の知れない影響力に恐れをなした私は、
読了直後、早稲田にある古書店に売ってしまいました。
以来、再読をためらっているため、今回のエントリーでの引用文は
記憶を頼りに再現した代物だとお断りしておきます。