2002年3月
俺と陽光のワンダの旅も半分が経過して、
あと3週間で帰国となってしまった。
相変わらず練習は朝昼晩と行い、
1年の頃は雲の上の存在だったナオさん、森さんに、
今は太刀打ちできている。
そんな中、俺には、この旅でもう一つやりたいことがあった。
それはボードの新調だ。
今使っている、ナオさんからのおさがりで、
インカレでの苦楽を共に味わってきた、
ベネット社製の赤いマリブボードは限界にきていた。
剥離して、表面がベコベコ。
そして、ここでの激しい練習でいつの間にか負っていた、
3か所の要リペアー部位。
もう次のインカレまではまずもたない状態だった。
そこで俺が狙いを定めたのは、
クラッカ。
日本ではほとんど知られていないが、
西浜の潤が乗ってるのがそこのボードで、
一度借りて乗ってみたら、ものすごく速く感じたのだ。
日本のマリブのシェアは、最初に持ち込まれたのがベネットだったのか、
ベネットが8割以上を占めているように思えた。
しかし、ここオーストラリアの選手たちを見ていると、
むしろベネットはマイナーな部類で、
クラッカが過半数を占めていた。
いつも夕練を見てくれている、
スーちゃんというオージーのおじさんに相談してみたら、
甲高い声で、
「アルヨ!!」
と返ってきた。
そして、一緒に練習していたオージーの高校生に声をかけると、
二人の学生がやってきて、
クラッカのマリブを見せてくれた。
スーちゃんはすかさず、
「コノアカイノ、ゴヒャクドルネ」
「コッチ、ハッピャクゴジュウドル。ドッチ??」
とまくしたてた。
俺の手持ちは900ドル。
頑張れば黄色も買えるが、
それをやってしまうと、残りの日々を50ドルで暮らさなくてはならない。
みんな黄色のほうがいいじゃんって言ってくれたが・・・。
でも、
初めてのマイマリブは赤のベネットだった。
初めてのマイカーも赤。
好きな色はもちろん赤・・・。
「スーちゃん、赤いほうちょうだい。」
「ワカッタ。」
俺は赤にした。
もうここまできたら、俺のカラーにしてやろうと思って。
そして始めて赤クラッカに乗る。
噂では、日本ではシュンともう一人誰かが乗ってるだけで、
俺の相棒は日本で3本目のようだ。
うおっ!
ば、バランスが取れない・・・。
ベネットとは比べ物にならないほどグラグラした。
それでも、慣れてきて、うまく漕げると、
今まで味わったこともないようなスピードを感じることができた。
これなら・・・勝てる・・・。
いざ、みんなで練習!
ボードインアウト。
最近は、5本やれば、2本はナオさん達とどっこいで、
1本はちょい負け、そして残りの2本は惨敗していたが、
赤いクラッカボードを手に入れ、
鬼に赤ボーと化した俺は、
2本は勝てるようになっていた。
しかし、あまりに不安定で、
残る3本は、途中で水中に転落して惨敗していた。
でも、あの二人に勝てている。
あとは、慣れさえすれば・・・。
ちょっとした自信になった。
3月が進むにつれて、
どんどんメンバーが帰国していった。
同期の金崎も帰った。
森田、永瀬、八賀のブロンズ指導者組も帰った。
さらに、和成達1年もみんな帰り、
気がつくと、学生は、俺と陽光と日女の美樹子だけになっていた。
女子1人になった美樹子が心細いと言うので、
最後のほうは、3人同部屋で寝ていた。
俺は毎日、あることを楽しみにしていた。
それは、ひそかに何人かに送っていた日本への手紙だ。
もちろん何人かからはぽつぽつ返信のお便りをもらっていたが、
肝心の本命からは返信がなかった。
言わずもがな、七瀬さんその人である。
今日も来ていない。
今日も来ていない。
陽光には、「もう来ねーろ。」
とか言われていたが、
帰国まであと数日というタイミングでとうとう来た。
「元気でやってますか?アダコーもキャリキャリいってんだ。
まー、アダコーレベルにはいっぱいいっぱいでしょう。
もうほとんど帰国しちゃったから静かになったんじゃない?
でも、みんなを盛り上げて楽しい生活を送ってください。
そーいえば、ハッピーバースデー!!
みんなに祝ってもらった??
最高の年になるように、
努力を惜しまず頑張ってください。
あ、そうそう。卒業旅行のタイは、一目ぼれするようなみやげが
見つからなかったです・・・。
でもそれにとってかわる物をご用意します。
ルークによろしくー!」
ルークというのはこっちのイケメンオージーだ。
くそ・・・相変わらずミーハーだな・・・。
でも、なんか嬉しかった。
もう卒業だけど、
それで会わなくなるのは寂しいから、
なんか、こうやって手紙をもらえると、
卒業しても会えるんじゃないかって気になる。
やっぱ俺はこの人がまだ好きだ。
そんなこんなで、
手紙もボードも手に入れて、
実力も確認できて、
勉強していた公務員試験も、
もってきていた教材3冊を終えることができた。
そして、なにより嬉しかったのは、
自分自身が明るくいられたということだ。
この1カ月半で心が洗われたのだ。
みんなに感謝したい気持ちだ。
そんなワンダでの日々も、とうとう終わりが訪れた。
もう美樹子も帰り、ナオさんも森さんもいない。
陽光と俺だけだ。
おととしも最後の日本人だったが、
今年もそうなった。
最後の晩餐は、オージービーフのステーキを食べた。
スーちゃんの運転する車で空港まで送られる俺たち。
滞在中幾度となくぶつかったソーリーとも固い握手をした。
心なしか涙ぐんで見えるソーリーにつられて、
俺も泣きそうになった。
ありがとう。
いつかまた、必ず帰ってきます。
俺は思わず叫んだ。
「I’ll be back!!」
今度は失笑されなかった。
2回、トータル3カ月半に及ぶオーストラリアでの旅が、
この日終わりを告げた。
帰国してすぐに4年生達の卒業式が行われた。
東海大学前に住んでいた七瀬さんも、
アパートから去って行った。
色々ありがとうメールをくれた。
俺にだけくれたのかなと少し期待したが、
金崎や梅木にもきていたみたいだ。
ちっ。
でも、これで本当に4年生が卒業してしまったのだ。
泣いても笑っても、俺のCREST生活最後のシーズンが始まる。
俺と陽光のワンダの旅も半分が経過して、
あと3週間で帰国となってしまった。
相変わらず練習は朝昼晩と行い、
1年の頃は雲の上の存在だったナオさん、森さんに、
今は太刀打ちできている。
そんな中、俺には、この旅でもう一つやりたいことがあった。
それはボードの新調だ。
今使っている、ナオさんからのおさがりで、
インカレでの苦楽を共に味わってきた、
ベネット社製の赤いマリブボードは限界にきていた。
剥離して、表面がベコベコ。
そして、ここでの激しい練習でいつの間にか負っていた、
3か所の要リペアー部位。
もう次のインカレまではまずもたない状態だった。
そこで俺が狙いを定めたのは、
クラッカ。
日本ではほとんど知られていないが、
西浜の潤が乗ってるのがそこのボードで、
一度借りて乗ってみたら、ものすごく速く感じたのだ。
日本のマリブのシェアは、最初に持ち込まれたのがベネットだったのか、
ベネットが8割以上を占めているように思えた。
しかし、ここオーストラリアの選手たちを見ていると、
むしろベネットはマイナーな部類で、
クラッカが過半数を占めていた。
いつも夕練を見てくれている、
スーちゃんというオージーのおじさんに相談してみたら、
甲高い声で、
「アルヨ!!」
と返ってきた。
そして、一緒に練習していたオージーの高校生に声をかけると、
二人の学生がやってきて、
クラッカのマリブを見せてくれた。
スーちゃんはすかさず、
「コノアカイノ、ゴヒャクドルネ」
「コッチ、ハッピャクゴジュウドル。ドッチ??」
とまくしたてた。
俺の手持ちは900ドル。
頑張れば黄色も買えるが、
それをやってしまうと、残りの日々を50ドルで暮らさなくてはならない。
みんな黄色のほうがいいじゃんって言ってくれたが・・・。
でも、
初めてのマイマリブは赤のベネットだった。
初めてのマイカーも赤。
好きな色はもちろん赤・・・。
「スーちゃん、赤いほうちょうだい。」
「ワカッタ。」
俺は赤にした。
もうここまできたら、俺のカラーにしてやろうと思って。
そして始めて赤クラッカに乗る。
噂では、日本ではシュンともう一人誰かが乗ってるだけで、
俺の相棒は日本で3本目のようだ。
うおっ!
ば、バランスが取れない・・・。
ベネットとは比べ物にならないほどグラグラした。
それでも、慣れてきて、うまく漕げると、
今まで味わったこともないようなスピードを感じることができた。
これなら・・・勝てる・・・。
いざ、みんなで練習!
ボードインアウト。
最近は、5本やれば、2本はナオさん達とどっこいで、
1本はちょい負け、そして残りの2本は惨敗していたが、
赤いクラッカボードを手に入れ、
鬼に赤ボーと化した俺は、
2本は勝てるようになっていた。
しかし、あまりに不安定で、
残る3本は、途中で水中に転落して惨敗していた。
でも、あの二人に勝てている。
あとは、慣れさえすれば・・・。
ちょっとした自信になった。
3月が進むにつれて、
どんどんメンバーが帰国していった。
同期の金崎も帰った。
森田、永瀬、八賀のブロンズ指導者組も帰った。
さらに、和成達1年もみんな帰り、
気がつくと、学生は、俺と陽光と日女の美樹子だけになっていた。
女子1人になった美樹子が心細いと言うので、
最後のほうは、3人同部屋で寝ていた。
俺は毎日、あることを楽しみにしていた。
それは、ひそかに何人かに送っていた日本への手紙だ。
もちろん何人かからはぽつぽつ返信のお便りをもらっていたが、
肝心の本命からは返信がなかった。
言わずもがな、七瀬さんその人である。
今日も来ていない。
今日も来ていない。
陽光には、「もう来ねーろ。」
とか言われていたが、
帰国まであと数日というタイミングでとうとう来た。
「元気でやってますか?アダコーもキャリキャリいってんだ。
まー、アダコーレベルにはいっぱいいっぱいでしょう。
もうほとんど帰国しちゃったから静かになったんじゃない?
でも、みんなを盛り上げて楽しい生活を送ってください。
そーいえば、ハッピーバースデー!!
みんなに祝ってもらった??
最高の年になるように、
努力を惜しまず頑張ってください。
あ、そうそう。卒業旅行のタイは、一目ぼれするようなみやげが
見つからなかったです・・・。
でもそれにとってかわる物をご用意します。
ルークによろしくー!」
ルークというのはこっちのイケメンオージーだ。
くそ・・・相変わらずミーハーだな・・・。
でも、なんか嬉しかった。
もう卒業だけど、
それで会わなくなるのは寂しいから、
なんか、こうやって手紙をもらえると、
卒業しても会えるんじゃないかって気になる。
やっぱ俺はこの人がまだ好きだ。
そんなこんなで、
手紙もボードも手に入れて、
実力も確認できて、
勉強していた公務員試験も、
もってきていた教材3冊を終えることができた。
そして、なにより嬉しかったのは、
自分自身が明るくいられたということだ。
この1カ月半で心が洗われたのだ。
みんなに感謝したい気持ちだ。
そんなワンダでの日々も、とうとう終わりが訪れた。
もう美樹子も帰り、ナオさんも森さんもいない。
陽光と俺だけだ。
おととしも最後の日本人だったが、
今年もそうなった。
最後の晩餐は、オージービーフのステーキを食べた。
スーちゃんの運転する車で空港まで送られる俺たち。
滞在中幾度となくぶつかったソーリーとも固い握手をした。
心なしか涙ぐんで見えるソーリーにつられて、
俺も泣きそうになった。
ありがとう。
いつかまた、必ず帰ってきます。
俺は思わず叫んだ。
「I’ll be back!!」
今度は失笑されなかった。
2回、トータル3カ月半に及ぶオーストラリアでの旅が、
この日終わりを告げた。
帰国してすぐに4年生達の卒業式が行われた。
東海大学前に住んでいた七瀬さんも、
アパートから去って行った。
色々ありがとうメールをくれた。
俺にだけくれたのかなと少し期待したが、
金崎や梅木にもきていたみたいだ。
ちっ。
でも、これで本当に4年生が卒業してしまったのだ。
泣いても笑っても、俺のCREST生活最後のシーズンが始まる。