コリコリ…… 第十回 | 中川忠の小説です。

中川忠の小説です。

中編小説を掲載しています。方針を変更して、毎日の連載にします。

 働くことには決意は決まったが、この酒臭い息のことはどうしようと考えていると、おばさんが、

「ええなあ、青春やなあ」とにこやかな顔を精一に向けた。

 精一は、

「青春かも知れんけど、ドキドキもんやねん。ぼく、何しゃべったらええんか分かれへん。その上にこうやって酒飲んでもうたから、絶対に怒られる。こんな酒臭い息してるから」と言うと、おばさんは、

「フラれる時は、酒臭い息してへんかってもフラれるんや。もしフラれたってええやんか。また好きな人はできる。それくらいの気楽な気持ちでデートしたらええねん」

「そんなん……。フラれたらショックやんか」

「そら、ショックやわ。ショックやなかったら、別に好きやなかったいうことやから。好きやからデートに行くんやろ?」

「そらそうです」

「ほんだら、当たって砕けろや。相手の人は何をしてる人やのん?」

「ケースワーカーさんやねん」

「ケースワーカーさん? ケースワーカーさんって何してる人?」

「病院関係の人」

「看護婦さんか何か?」

「まあ、そんなもんです」

「そんな仕事してたら、結構稼ぎはええんとちゃうのん? 何ならおにいさんが家におって、主夫になるんもええかも知れんなあ。その時のために、料理の勉強しときや。わたしが教えられる時は教えたるで」とおばさんは気が早い。

 おばさんの優しさに触れて、精一は、本当のことを打ち明けようと考えた。そして自分は精神の病気で、最近退院してきたばかりの身だということを言ってのけてしまった。

 おばさんは、腰に両手を当てて「ふーん」と相槌を打った。無関心というわけでもなく、物凄い関心があるというわけでもない返事だった。そのために精一はさらに打ち明けることになった。

 自分はこの近くの精神科のクリニックのデイケアに通っていて、今日のデートの相手というのは、そのデイケアのスタッフだということも。

 おばさんはやはり例の「ふーん」という相槌をまた打った。そして、

「そんな病気には見えへんなあ。退院したいうことは、精神病院に入院してたいうことか?」

「そうです」

「へえー。精神病院に入院してた人いうのに、わたし、初めて会うたわ。ほんでもおにいさん、やっぱり普通やなあ」

「普通ですよ、たいがいの人は。症状の重い人は普通には見えへんけど、ぼくみたいに外に出歩いてもええような人は、みんな普通ですよ」と笑いながら言うと、おばさんは案外真面目な顔を崩さずに、

「ほんまかいな。普通なんかいな。わたしみたいな年寄りは、精神科の病気いうたら、正直な話、凄い偏見を持って見てたから、おにいさんみたいな普通の病人見たら、逆にびっくりするわ。そんな病気やのに、働けるんかいな。それより、病気やのに、お酒飲んでええんかいな」とおばさんは興味津々という顔をして、精一をじっと見た。

「働いてもすぐにしんどなって、辞めてまうねん。その癖こうやってお酒飲むことだけは一人前やねん。よっぽど怠けもんやから、ほんまに困ります」と自嘲気味に言うと、おばさんは、

「怠けもんいうんはあかんで。どんな風に世の中が変わっても、怠けもんが成功するいうことはあれへん。会社に勤められへんかったら、なんか自分でできる仕事とかあれへんのか?」

「ぼく、ほんとの夢は、小説家になることやねん」と言うと、おばさんは急に大きく目をむいて、

「あんた、小説家になりたいんかいな。なんや、そんなこと考えてるんかいな。まるでわたしの別れた旦那みたいやなあ。急に大学に行きたい言うた旦那も、ほんとは小説家になりたい言うてた。そんな人、わたし、一番嫌いやって今まで思うてたけど、おにいさん、なんか、感じのええ人やねえ」と少し前かがみになって、精一をじっと見ている。そして、

「そうや、そうや、おにいさん、なんか感じがええんや。昔小説家になりたい言うてたわたしの元旦那は、頑固者でえらい感じ悪かったけど、おにいさんは、感じがええ。それは大きな取り柄やで。わたしらこうやってしゃべったん、初めてやろ? そうやのに、もうこんなに話弾んでるんは、おにいさんの感じのよさのおかげやで。なんやかんや言うても、感じがええいうんは、大きな武器になる。そうやって初めてしゃべる人にええ感じ与えるいうんはええことや。ほんでここで言うとくけど、こんな年寄りやけど、わたしかって立派な女なんやで。こんなおばあさんでも、どっかに娘さんみたいな気持ちを持ってる。そんなわたしが、ああ、いいおにいさんやなあって思うんやから、これからデートする人も、おにいさんのこと、ああ、ええ人やなあって、きっと思う。そやから、わたしとこうして話を始めて、今こうやって弾んでるいうことは、その人かって、きっとええ人やなあって思うことになるに決まってるんや。問題は、あんまり緊張し過ぎんことや。わたしとこうやってしゃべってるんと同じようにしゃべったらええ。女いうても、おにいさんとおんなじ人間や。会話が弾んだら嬉しいもんや。会話が弾んで友達になる。それがスタートや。スタートいうより、それさえできたら、もうほとんどの関門は過ぎたも同然や」と言う。