そこで精一は酒の酔いに任せて、おばさんに、
「ぼく、これからデートに行くねん」と言ってみた。
「へえー、凄いねえ。おにいさん、なかなかやるやん」
「いや、全然やれへんねん。ぼく、三十一歳になるねんけど、これが人生で初めてのデートやねん」
「ええやん、初めてでも。誰でも一回目にすることは初めてやねんから。それが何歳やっても、別に気にすることあれへん」
「ほんでも、三十一歳で初デートいうんは、遅過ぎるでしょう?」
「遅過ぎるいうんは、逆に考えたらええもんやで。ある程度考えができてるから、無茶なことせえへん。早過ぎる方が問題や。十五歳くらいにしかなれへんのに、お母さん、ぼくら結婚したいねんけどって言われる方がびっくりする」
十五歳といえば、彼は女の子と目を合わすことすらできなかった。デートとか結婚とか、そんな言葉とは、全く縁がなかった。
「わたしも早くて、十九歳で結婚したんやけど、完全に失敗やった。ほんでもお見合いやから、せなしゃあない。昔は親の言いつけに背かれへんかったからなあ。ほんでも全然気が合えへんかったんは困った。稼ぎはたいしたことないくせに、うるさい男やった。ほんでも我慢して子供も三人作って五年たった。ああ、やっと落ち着いたかなあって思うたら、その亭主、何て言うたと思う? ぼく、勉強し直して大学行きたいから、仕事辞める言うんや。生活費はどうすんのんって訊いたら、そんなん知らん。親父かおふくろに援助してもうたらええやんか、とか言うねん。わたし、その言葉聞いて、思わずキーーッって叫びそうになったわ。ほんで上の男の子背中におぶって、海岸まで歩いた。もう晩遅かったけど、そんなこと気にせえへんかった。なんでかいうたら、わたし、もう、死のうって思うてたから。それで海に向かって歩き出した。背中の息子には悪いけど、一緒に死んでくれって願った。ほんでも水が膝くらいまで来たとこで、やっぱりやめとこうって思うた。あんな自分勝手な男とは別れて、子供らを連れてわたしがみんなの面倒を見たるって思うた」
そこまで言っておばさんは自分のために麦茶をコップにいれて、一気に飲み干した。
精一は二杯目の焼酎のお湯割りを頼んだ。おばさんは若ごぼうを炒めたおかずを皿に盛りつけて、また彼の前に出した。そして話を続けた。
「子供らの面倒見たるっていうても、子供、三人もおんねんで。何をして面倒見たらええんか分からん。何しろわたし、ずっと専業主婦しかしてへんかったから、働いたことあれへん。ほんで豊岡におった友達のとこに駆け込んで助けてくれって言うたら、一緒に着物の着付け教室しようって言うてくれたんや。その友達は、だいぶ前からやってんねん。そやから内情をよう知ってる。その友達、独身やから、彼女の部屋に四人で居候させてもうて、着物のこと色々勉強した。それから二人で着付け教室を大々的に始めて、わたしもやっと儲けることができるようになった。その儲けで、子供らを三人育てあげたってわけ」
大変な話だと、精一はすっかり感服した。精一は会社勤めはしたことはあるが、最高に続いて一年半ほどのことだ。どこに行っても長続きしない。自分一人ですら養えないから、一人暮らしもできなかった。着物の着付け教室をして三人もの子供を育てたおばさんは凄いと、感服したのだ。
そうだ、彼は今無職なのだ。もしだ、もし事がうまくいって、向井理栄と結婚の運びとなった時に、彼は一体どうやって彼女を養っていけばいいのだ? そのことを考えもしなかった自分に対して、精一は、何と迂闊だったかと唇を噛んだ。
するとおばさんは精一の顔を見て、
「おにいさんはいつもこんな時間に飲みに来るけど、家がお金持ちとか何かなんか?」と訊ねた。
彼は、「とんでもない」と手を振った。
「ぼくのうちなんか、貧乏やねん。そやからぼくもそろそろ働きに行かなあかんねん」
「そうか、そうか。働いたらええ。少ない給料でもええから、働いたらええ。好きな女の子おるんやったら、その子のために働いたらええねん。他の誰のためでもあれへん。おにいさんとおにいさんが好きな人のために働いたらええねん。ほんだらいつかは運が開ける」
そうか、働こうと精一は心の中で決意した。親のためでも世間のためでもあれへん、自分と向井理栄のために働くねん。二人以外に世界には何もないって思うくらいの気持ちで、働くねん。