コリコリ…… 第三回 | 中川忠の小説です。

中川忠の小説です。

中編小説を掲載しています。方針を変更して、毎日の連載にします。

 クリニックの近くにある百貨店の八階のカレーショップで食事をしたのだが、一通りカレーを食べ終えて、ナプキンで口を拭ってくつろいでいると、彼が不意に精一の方に身を傾けるようにして、

「ぼくの彼女、歌手の渡辺美里やねん」と発言したのだ。

 その当時渡辺美里といえば随分人気のある歌手だった。精一自身も、彼女の名を聞いて冷静ではいられないほど好きであった。そんな有名な歌手の彼氏なんやって聞いて、はい、そうですかと納得できるはずがない。迫田のこの発言は、明らかに妄想だと分かった。

 ぼくは思わず、「そんなわけないやん」と真っ向から否定した。

 すると迫田は別に気を悪くした様子もなく、全く表情を変えることもなく、

「いや、ほんまやねん」とあっさり答えた。

 それだけ平然と言ってのけられると、精一の方でも、それ以上言い返しようがなかった。

 すると迫田は、わが意を得たりとばかりにニタリと笑うと、

「美里はラジオではっきりとぼくのこと言うてんねんから、確かなことや。ほんでいつも、その週の末にどこで会うかどうかも、知らせてくれる」と付け加えた。

 精一はただ「へえー」と相槌を打つより他に仕方がない。

 すると迫田は、体を前に傾けた姿勢のまま、

「ぼくの言うこと、嘘やて思うてるやろ?」と訊ねた。

 それで精一は、

「ほんでも、渡辺美里さんは、大体東京におんねんやろ? 週末になったら、わざわざ大阪まで来んのん?」と訊ね返した。

 すると迫田はまたニヤリと笑うと、

「それには色々とカラクリがあんねん」と答えた。

 どんなカラクリか、興味はあったが、別に無理に聞かなくてもいいと判断して、精一は、

「ふーん」とまた相槌を打った。

 すると迫田は、

「わざわざ大阪まで来んでも、ぼくは美里に会えるねん」と言って、相変わらず真面目な顔をしている。

 これは手ごわいと、精一は判断した。そこで今度は何も返答をしなかった。

 すると迫田は、

「盛岡さんは、誰か好きな人、おんのん?」と尋常な質問を投げてきた。

 渡辺美里に関する不気味な話題から離れたことを、精一は喜んだが、だからといって、この質問は極めてデリケートなもので、そう簡単に即答でるものではなかった。それで精一が黙っていると、迫田は不意にいきなり、

「自分、向井さんのこと好きなんやろ?」とズバッと斬り込んできた。

 これには驚いて、精一は顔を挙げて迫田の顔をじっと見た。迫田はやはりニヤニヤ笑いながら、精一の顔を見返している。

「隠さんでもええねんで。ぼくが渡辺美里を彼女にしたみたいに、自分かって、向井さんを彼女にしたらええねん」と事も無げに言う。

「そんなん、できるわけないやん」と精一が言うと、

「でけへんとも限らんで。ぼくが手伝ってあげる」と言う。

「どうやって?」

「どうやってって、簡単やん。向井さんと自分が一緒に喫茶店に行けるように、ぼくがセッティングすんねんやんか」

「どうやって?」

「どうもせえへん。ただ向井さんに、盛岡さんがあんたのこと好きやから、一緒に喫茶店に行ってくれへんかなあって、頼むねんやんか」

「そんなん、断られるに決まってるやん」

「いや、決まってへんで。物事、何でもやってみんと分からん。やってみてあかんかったら、駄目でしたって言うて、舌出してたらええねん。もしうまいこと行ったら、それこそ儲けもんやろ?」

「そらそうやけど、そんなん、確率低いやん」

「低い確率でも、一パーセントでも確率があるんやったら、やってみた方がええとぼくは思うけどなあ」

 確かに迫田の言う通りだ。渡辺美里と付き合っているなどととんでもない妄想を抱いている者としては、とてもまともな意見だ。

 渡辺美里などという超有名人と付き合っているとう、妄想の中の事実が、彼をそれだけ大胆にしているのかも知れない。