ビービー・デビル 第五回 | 中川忠の小説です。

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中編小説を掲載しています。方針を変更して、毎日の連載にします。

 俺は驚異の石ころの手を掴んで振った。驚異の石ころも力強く手を振る。男と男の友情が芽生えたようだ、俺は思わず嬉しくなる。

「あら、あなた泣いているのね」と美紀子が俺を見て笑った。

「馬鹿野郎、泣いてるわけないだろう」と強がってみたが、頬を涙がツーと伝った。

「いいのよ、そんなに照れないでも。わたしも嬉しくて涙が出そうなんですもの。よかったわ」と美紀子が目頭を押さえて言った。

「ぼくも涙が出そうです」と驚異の石ころも言った。

 俺と驚異の石ころの手の上に美紀子の手も乗り、三人の心はしっかりと結び合わされた。

 握手が終わり、俺たちはみんな元の体勢になって座っている。ビービー・デビルは相変わらず来ない。

 さすがに退屈になって来た。そこで俺は驚異の石ころにこんな質問をした。

「あなたは小説などを読みますか?」

「小説ですか」と言って驚異の石ころは少し考え込んでいる。考え込むほどの問題ではないじゃないかと思いながらも、俺は待っている。

 するとやっとこたえが返って来た。

「少しは読みます。でもほんの少しです。一年に一冊くらいです。そんなくらいなら読むうちに入るのかなあと思って、しばらくこたえに困っていたのです」

「まあ、そうだなあ。一年に一冊読むくらいなら、こたえに迷うよなあ。でも一年に一冊でも読むと言えば読んだことになる。かく言う俺は小説を書く人なんだ。いわば小説家だな。美紀子もそうだ」

「はい、もう知ってました」と驚異の石ころの反応はそれだけで終わったので、俺はいささか拍子抜けの気味だ。

「小説家なんか別に珍しくないか。君は我らが指導者の下で働いているくらいの人だから」

「確かに珍しくないです」と驚異の石ころはあっさりと言う。「我らが指導者も小説家ですからね。趣味で小説を書いて出版しています。だから珍しくないです」

「へ~、そうなんだ」と俺は驚いた。「我らが指導者は小説を書くんだ。それはすごい。指導者でありながら小説を書くなんて、なかなか出来る技じゃない」

「それほどでもありませんよ」と驚異の石ころはあっさり否定した。

「何がそれほどでもないんだ? 指導者であることがか? 小説の腕がか?」と俺は不審になって訊ねた。

「小説の腕はぼくには分かりません。でも我らが指導者というのは、名前が我らが指導者というから我らが指導者をやっているだけなんです。他には何の根拠もないんです」

「でも実力があるから我らが指導者になっているんじゃないか?」

「確かに実力はあるかも知れません。あの人はある時に我らが指導者という名前を貰った。だから我らが指導者になったのです」

「誰から名前を貰ったんだ?」

「交番の巡査から貰ったのです」

「交番の巡査?」

 俺は美紀子の顔を見た。すると美紀子もいささか驚いた顔をしている。

「はい、ぼくたちの国では、交番の巡査が人に名前をつけるのです」

「交番の巡査は誰に名前をつけてもらうんだ?」

「交番の巡査にです」

「じゃあ、この国で一番偉いのは交番の巡査なのか?」

「いいえ、我らが指導者が一番偉いのです」

 俺は何が何だかよく分からなくなった。そこでもっと押し進めて訊こうと思っていると、驚異の石ころが「シー」と言って指を立てた。「ビービー・デビルが来ました」

 自動車の前を背広を着た若い男が通り過ぎた。ただの背広を着た若い男だ。

「あれがビービー・デビルなんです」と言って、驚異の石ころはクラクションを鳴らす。するとビービー・デビルは立ち止まってこちらを見た。

 驚異の石ころはダッシュボードからマイクを取り出して、「ビービー・デビル、少し話がある」と言った。

「何だ、そんな自動車の中にうずくまって。俺が怖いのか?」とビービー・デビルの声が聞こえる。太い声で舌を巻いた、怖いお兄さんがしゃべるようなしゃべり方だ。

「確かにぼくたちはお前が怖い。しかし怖いと言われて威張ってはいけない。それだけお前は爪弾きにされているということなんだ。それが分からないのか。一般市民の中でひっそりと暮らすということが、どれほど価値のあることか、お前には分かっていない」と驚異の石ころはなかなかいいことを言う。

 ビービー・デビルは意気がって、「ふん、そんなもの分からなくともいい」と返した。

「今日はある人をお連れした。お前は後部座席の左側の座席に座っている女性が誰か分かるか?」

「え? 後部座席?」と言ってビービー・デビルは自動車に近づいて来た。

 俺と美紀子は身を堅くする。美紀子は俺よりもっと身を堅くしたことだろう。ビービー・デビルという恐ろしい青年にまともに目を据えて見られているのだから。

 ビービー・デビルはじっと美紀子を見て「知らねえな、こんな女の人」と大声で言った。

 すると驚異の石ころが「斎藤美紀子さんだ。お前と小学生の時に同級生だった」と言う。

 ビービー・デビルは「え?」と驚いた声を上げて後ずさりした。

「驚いたか、ビービー・デビル」と驚異の石ころがマイクで言った。俺は何が驚いたのだろうかと不思議に思う。美紀子のどこにも人を驚かせるところはないのだ。

「いや、驚かない」とビービー・デビルは口ではそう言うが、明らかに動揺している。

「お前が斎藤美紀子さんを見て驚かないわけがない。お前は小学生の頃、斎藤美紀子さんが好きだった。お前がこれまでの人生の中で唯一憧れた女性だ」

 ビービー・デビルは何も言わなかった。

 驚異の石ころはさらにこう言い募る。

「斎藤美紀子さんがこの世界に現われたとなると、お前ももう今までのような悪いことが出来なくなるだろう」

 ビービー・デビルはやはり何も言わない。

「美紀子さん」と驚異の石ころが自動車の中の美紀子に話しかける。「ビービー・デビルに何か言ってやって下さい。そしてビービー・デビルをまっとうな道に戻してやって下さい」

 マイクが美紀子に手渡された。

 美紀子は少し咳払いをして喉を整えてこんなことを言った。

「ビービー・デビルさん。お懐かしいです。小学校の同じクラスで勉強して随分になりますわね。あなたがこんな所にいるとは思いませんでした。そして何か悪いことをなされているみたいで、わたしは悲しいです。あなたは本当は悪いことなんか出来るはずはないのです。これには何かの事情があるのでしょう。どうかそれを打ち明けて下さい。お願いします」

 ビービー・デビルは背を向けていた。しかし背を向けながらも美紀子の言うことは聞いているのは明らかだった。肩が揺れているようにも見えた。泣いているようにも見えた。いや、ことによると笑っているのか。

「どうだ、ビービー・デビル」と美紀子からマイクを受け取ると、驚異の石ころはこう言う。「悪いことをやめる気になったか? 後ろを向いていないで、何か返事をしろ」

 ビービー・デビルは何も言わず、こちらに顔を向けもしないで、そのままビルの中に入って行った。驚異の石ころは何も言わずにビービー・デビルを見送っている。

「追いかけるわけには行かないんです」と驚異の石ころは言う。「ビービー・デビルの手から発せられる光線を浴びると、わたしたちはシーシー・デビルになってしまいます。何とかあの光線を封じる手はないものか」

 驚異の石ころは考え込んでいる。

 しばらくビルの前で待ったが、ビービー・デビルはもう二度と俺たちの前には現われなかった。やがて自動車は発進する。俺たちはまた空を飛んで、我らが指導者の邸宅まで来た。