心中なんか大嫌い 第三十回 | 中川忠の小説です。

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中編小説を掲載しています。方針を変更して、毎日の連載にします。

三、

 持ち場に戻ると、幸い体の変化は収まっていた。話は全く収まらなかった。逆に静美の方にアドヴァンテージを与えたようなものだ。

 あまり身の入らない仕事を終えて会社の建物を出ると、出口付近の物陰から不意に友理乃が姿を現わした。彼女は全く元気をなくしていた。静美にまた何か言われたのだろう。

「どうしたんだ?」と訊ねると、

「会社に成岡から電話があったの」と言う。

「何て言われたんだ?」

「別れるのなら別れてもいいけど、最後に一度会ってくれって言われたの」

「どこで?」

「N駅のいつもの待ち合わせ場所に来いと言うの」

「いつ?」

「今日来いと言うから、今日は用事があって無理だと言った。じゃあ、明日と言うので、仕方なく行くと言った」

「あんな奴に会ったりしたら駄目だ」と宗近は言ったが、会わないですませる方法は思いつかなかった。

「よりさん、一緒に来て下さらない?」と友理乃は訊ねた。彼女はどうするべきか既に考えていたのだ。

「もちろん行ってもいいが、ぼくなんかがそばにいてあいつが納得するだろうか?」と疑問を呈した。

「よりさん、どうしてそんなに弱気なの? ここはよりさんにしっかりしてもらわないと、話は片付かないのよ。成岡の前でわたしを抱きしめて、『この人を守るのはぼくなんだ』くらい言ってくれないと、あんなしつこい虫は取れないわ」

「なるほどな」と宗近は何げなく言ってしまったが、これはまずいと気づいた。あまりに簡単な返事で片づけてしまったからだ。

「なんか、身が入っていないみたいね。静美にはちゃんと言ってくれたんでしょう? 昼休みが終わって持ち場で一緒になった時、静美はこう言ったわ。『もうあなたを殺すなんて脅かさないから安心して』って。どうやったのかは知らないけれど、あなたは立派に解決してくれたから安心していたのに、なんか今のあなた、心ここにあらずって感じがするわ。もしかして、静美の言葉は額面通りに受け取ってはいけないのかしら。あの言葉の裏に何か謎があるんじゃないの?」

「謎って何だ?」

「あの子と何か密約でも結んだとか」

「密約?」

「そうよ、密約。あなたはすっかりあの子の美貌にまいってしまって、わたしじゃなくてあの子と付き合うことにした。そのためにはわたしとは別れなければいけないけれど、それをどう切り出そうかと考えているとか」

「とんでもない妄想だ!」と宗近はびっくりして一時に目が覚めた。

「そんなことは決してない。冷木さんは、確かに顔はきれいだが、性格がやり切れないほど悪い。そんな子と付き合う気にはなれないよ。そんなことよりどこかで食事でもしないか?」と宗近は友理乃を誘った。

「うん、いいわ。今日はお姉さん、夜勤で帰って来ないから、外で食事をしなければならなかったの」と彼女は応じた。

 宗近は会社の近くの公衆電話で家に電話をかけて、仕事で遅くなるから夕食はいらないと告げた。少しお酒を飲もうと提案すると、友理乃は、

「わたしも飲みたかったの」と一人前の口をきく。

「飲みたいと言っても、わたしが飲めるのはちょっとだけだけどね」といたずらっぽく笑った。

やっと元気になった彼女を見て、宗近は取り敢えず安心した。しかし明日の成岡との対面については不安があった。自分の奥さんの目の前で浮気相手のことを平気で口にするような悪い男が、そう簡単に友理乃を放してくれるとは思えなかった。土下座よりももっと嫌なことを要求されるような気がした。

金ならもちろんない。あれ以上の辱めも受けたくはない。友理乃の言うように、彼女を抱きしめて決意を宣言するというのは一手だろうが、そんな手に乗るような善良な男なら、最初から問題はない。

それからもう一つ問題がある。冷木静美の口からでた心中の申し出のことだ。あんなことは嫌だと言えばそれで済むのだが、静美が自棄になって友理乃にぶちまけてしまわないかと不安になっていた。彼女のことだから、ないことないこと付け加えて、友理乃を不安にさせるだろう。それでなくとも疑いを持っている友理乃が、その疑いをもっと激しいものに発展させないとは断言出来ない。

三十になるこの年まで全く女に縁のなかった彼が、どうして突然こんな混乱の渦に投げ込まれたのか、首をひねっても解答は出ない。