心中なんか大嫌い 第十五回 | 中川忠の小説です。

中川忠の小説です。

中編小説を掲載しています。方針を変更して、毎日の連載にします。

「奥さん? きみは結婚しているのか?」

「しているよ。知らなかったのか?」

「友理乃さんも静美さんもそんなこと言ってなかった」

「言うわけないじゃないか。知らないんだもの」

「そんなの、結婚詐欺じゃないか」

「詐欺って、俺、二人から金なんか取ってないぜ。何しろ俺んちは金持ちだからな。店は奥さんが趣味でやっているんだ。今日は久しぶりに帰るから緊張するなあ」完璧にふざけている。

 宗近はひとこと「帰る」と宣言した。

「どうして?」と成岡は訊ねる。

「どうしてって、決まってるじゃないか。きみが結婚しているんなら、ぼくが友理乃さんと付き合ったって、何ら差しさわりはないわけだ。静美さんとは付き合う気はないけれど」

「ところが差しさわりがあるんだ。俺は友理乃のことがとても好きなんだ。だから差しさわりがある。そうだろう?」

そんなのは全く道理に合わない話だ。

「俺の奥さんは俺が浮気してたって平気なんだ。金を使って趣味を楽しめたらそれで満足なのさ。それに簡単に店も持てる。こんなにいい身分にいるんだから、亭主の浮気なんかどうでもいいんだ」

 宗近には信じられない世界だった。成岡は宗近の背中に手を当てて、『花ざかり』の中に導いた。宗近は抵抗する気力を失っていた。

「あーら、いらっしゃい」と店の中から嬌声をあげたのは、きれいだががっちりとした体つきの女性だった。決して気が弱くはないタイプの人だ。

「あんた、来たの。久しぶりだわね。その人どなた?」と成岡の奥さんは矢継ぎ早に訊ねる。

「俺の女を二人も取った男なんだ。お灸を据えてやらないといけないと思って、ここに連れて来たんだ」

「ここは鍼灸院じゃないよ。お灸なんか用意していない」

「それはそうだ。ここで実際のお灸なんか据えられない」と言って成岡は軽快に笑った。

「お灸の代わりにビールをくれ。この人と俺に一本ずつ」

 成岡の奥さんは「あいよ」と答えて手際よくビールを取り出して二人の前に置き、さっさと注ぎ出した。

「俺の奥さんの名前は須美代っていうんだ。まるで年寄りみたいな名前だろう」と成岡が言うが、宗近は何も答えられなかった。

「年寄りって何よ。初めて会ったお客さんの前で言わなくてもいいだろう」と須美代は磊落に笑う。成岡とは違って、案外明るい性格の人のようだ。言い方は乱暴だが優しさを感じる。一方の成岡は、言い方は静かだが内面の冷たさがある。

「この人は宗近さんなんだ」と成岡が須美代に紹介したので、ぼんやりしていられないと思って、「宗近です」と挨拶をした。

「あら、丁寧でいい人ね。こういう人が本当は女にもてるのよ。あんたみたいな乱暴な男は、パッと見たところ見栄えはするけど、結局はもてないの」

 奥さんが夫の浮気について平気で語るのを聞いて、宗近は奇異に感じた。須美代はあっけらかんとしている。彼女の様子を見て彼は少し笑いたくなった。うん、なかなかの傑物だ。

「二人も女を取られたから、誰か新しい女を紹介してくれよ」と成岡がおどけた調子で頼んだ。

「いいよ、紹介してやる」と須美代はあっさりと引き受けた。

「いや、やっぱり駄目だな。俺はあんたを許せない。俺のプライドはズタズタだ」と言いながら、成岡は宗近に向かって卑しくニヤニヤと笑いかけた。

「あんたにプライドなんかあるの。知らなかったわ。下半身と口だけで生きている単細胞生物だと思ってた」

「何だよ、それ」

「脳みそなんかないということ。脳みそのない生き物にプライドなんかないわ」

「ひどいこと言うよ。お前だって俺の金を目当てに結婚したんじゃないか。脳みそのない守銭奴じゃないか」

「守銭奴として生きていこうと思ったら、随分考えないといけないのよ。あなたのご両親やそのお友達連中とも仲良くしないといけない。人間関係の色々な駆け引きもしなければならない。その辺の温室育ちのサラリーマンよりも、はるかに脳みそが必要なの」

「サラリーマンと言えば、あんたはサラリーマンだよな?」といきなり成岡は宗近に訊ねた。

「そうだ」

「サラリーマンは脳みそがないように言われたけど、腹が立たないのか?」

「ぼくは腹は立たない。だってサラリーマンなんて本当に脳みそのない人がやる仕事だと思ってる」

「あんたも脳みそがないのか?」

「うん、多分ないと思う」

「そんなこと言っていいのかよ」と言って成岡はコップのビールを一気に飲み干した。

「仕事にプライドを持たないといけないのじゃないか。自分のやってる仕事を、脳みそのない奴のやる仕事だなんて言ってたら駄目だろう」

「あんたは仕事なんかしたことないじゃないの。仕事のことで人に説教したって意味ないじゃないの」と須美代が口をはさむ。

 宗近は何も答えずにビールを一気に飲み干した。そしてこのビールは一体いくらするのだろうかと考えた。須美代はいい人には見えるが、何しろ成岡の奥さんだ、金を取る時はシビアに取るに違いない。