「男の人って純情な方がいいのですよ」まるでこちらより年上みたいなことを言う。宗近はすっかり圧倒されて何とも言葉を返すことが出来なかった。
「わたし、先に宗近さんと出会っていればよかった」と意味深長なことを言う。彼は不意に不安になった。この話がなかったことになってしまわないかと危ぶんだのだ。
宗近はもう一杯冷や酒を頼んで、クィっと一口飲んだ。すると友理乃は小さなため息をついた。
「どうしたんだ」と宗近はやっとの思いで訊ねた。心配は消えない。
「不誠実なのはわたしの方です」と彼女はいきなり告白した。
「わたし、本当は今日、男の人と会う約束だったのです」
衝撃のため言葉が出なかった。衝撃と同時に予期していたことでもあった。自分の恋愛がそう簡単に進行することはない。彼は常々そう思っていた。それが今回も当たったのだ。
「がっかりしました?」と友理乃は宗近の方を見て訊ねた。
「がっかりしたね」と答えざるを得ない。
「一応その人は彼氏なんだけど、わたしもうその人とは付き合いたくないの。何もかも強引で、ついて行けない。何度も別れようとしたのだけれど、そんな時には縋り付いてくるの。その縋り付き方も強引なの。わたしの方が恥ずかしくなるくらい」
「今はその人と付き合ってるんだな?」と宗近は確認する。
「表向きはそうだけど──」
「表向きも裏向きもない。付き合っていることに間違いはない。ぼくは彼氏のいる女性を無理やり彼氏から引き離したりはしたくない」
「道徳的に? それともトラブルになるから?」
「両方の理由だね。ぼくは彼氏がいると聞いただけで気持ちが萎えてしまうんだ。そんな人に言い寄るほどの元気はない」
「今の場合言い寄ったのはわたしだけど、それでもいけないの?」
「じゃあ、すぐにその人と別れてくれるか?」
「別れる、もちろん。それなら付き合って下さるの?」
「本当にぼくなんかでいいのか?」
「いいに決まってるじゃないの。前から好きだったんだから」
「ぼく、もう三十歳だよ」
「それがどうしたの?」
「こんなおっさんでもいいのか?」
「おっさんだなんてとんでもない。宗近さんってなかなかいいわよ」
彼女の言葉遣いはすっかりくだけている。それに従って宗近の気持ちも彼女に寄りそうようになってきた。
「ぼくたちが付き合うとしたら、その男の人とは別れてくれないといけない。そんな厄介な人だったら、別れるのは難しいんじゃないか?」
「難しくても別れるの。わたし、宗近さんのこと好きだもの。宗近さんはわたしのこと好き? 急に言われても答えられないでしょうけど。今までわたしのことなんか意識していなかったのでしょう?」
「そうでもない」
「意識してくれていたの?」
「それでなかったら、今こうしてお付き合いすることを承諾するはずがないじゃないか。ぼくは女なら誰でもいいと思っている男じゃないよ」
「そうよね、宗近さんは誠実な人よ。たとえ一升のお酒を飲んでも、決していい加減なことは言わない」
「言えないんだ。だから今まであまりいい人生を歩めなかった」
「不誠実だったらいい人生を歩めるの? そんなのおかしいわ。宗近さんは立派にいい人生を歩んで来たはずよ。いい人生って、決していい会社に入ったりお金持ちになったりすることじゃないんだもの」
「それはそうかも知れないけれど、世間的には通用しない考え方だよ」
「だったら不誠実になるように努力すればいいのよ。あいつは努力なんかしないでも立派に不誠実だけど」
「あいつって……」
「そうよ、あいつ。わたしの彼氏だと言っている人。自分の欲望だけが大事なの。金持ちの家に生まれたから、ろくに働かなくても羽振りがいいの。食べたい時に食べて、飲みたい時に飲んで、抱きたい時に抱いている。みんな値の張るものばかり。わたしも抱かれるわけだけど、お前は安物だと言うのよ。安物なら他のもっと高価な人と一緒にいたらいいのに、いざわたしがいなくなったら縋り付いてくる。頭がおかしいとしか言いようがないわ。不誠実だけど満足に暮らしているみたいよ。そういう人がいい人生を歩んでいると思うの?」
「とても思えないなあ」
「そうでしょう。いい人生って、成岡の歩んでいるような人生では絶対にないわ」
「成岡っていうのか?」
「そう、成岡。下の名前は忘れたわ。下の名前で呼びたいと言っても呼ばせてくれなかったんですもの。彼のことを呼ぶ時は『成岡さん』よ。まるで上司でも呼んでいるようでしょう。まあ、上司みたいなもんね。態度が横柄だもの、わたしに対しては特に」
「年はいくつなんだ?」
「さあ、いくつだったかしら。二十五かな。ことによると宗近さんとあまり年は違わないかも知れない」
「年も知らない人と付き合っていたのか?」
「そうよ、馬鹿でしょ、わたし」
自分のことを馬鹿だと言っている人にそうだねとも言えない。馬鹿ではないと否定してもとってつけたようだ。