しっぽを探して 第十回 | 中川忠の小説です。

中川忠の小説です。

中編小説を掲載しています。方針を変更して、毎日の連載にします。

 奥さんは二つのガラスコップになみなみと酒を注いだ。その時も奥さんは何もしゃべらない。概して何にもしゃべらない人だ。最初に丁寧な挨拶を聞いたから、しゃべられない人ではないことは知っている。しかしこの部屋に来てから、ぼくは奥さんの声を何も聞いていない。

「さあ、飲みなさい」と勧めたのは、奥さんではなく正木英々だった。彼はもう自分のコップを手に取って飲み始めている。ぼくも飲まなければならない。

 飲まなければならないなどという殊勝な考えは、ぼくにはなかった。ぼくは酒を飲むことが大好きなのだ。酒を飲んで仕事が勤まるのなら、こんなにいいことはない。

 つまみはサバの塩焼きだった。正木英々はひじきの皿を手に取っている。むしゃむしゃ食べて、ごくごく飲んでいる。彼がごくごく飲んでいるのだから、ぼくもごくごく飲んでいいのだろうと考えて、ぼくは遠慮なく飲んで食べていた。

 コップの中の酒がなくなると、奥さんがまた注いだ。正木英々のコップにも、またなみなみと注がれる。二人の間には会話はなかった。さっきまでしっぽも交えてあんなに会話が盛んだったのに、正木英々もしっぽも急に黙り込んでしまった。奥さんはもちろん何もしゃべらない。

 三杯ほどの酒を飲み尽くすと、さすがに酔ってきた。何かしゃべりたくなった。しかしみんなが黙っているのに、一番年少のぼくが口を出すことはできない。

 すると正木英々が、「もういい」といきなり口をきいた。何がもういいのだろうと、ぼくは訝しく思って彼の顔を見た。正木英々の顔はまっかっかだった。

「もう飲むのはいい。そしてもう黙っていなくてもいい」としゃべることにも許しを与えた。

 しゃべってもいいと言われても、ぼくには何も話すことはない。ただもう一度しっぽに目をやっただけだ。肌色のしっぽは、

「何だね?」とぼくに問いかけた。

「あなたは飲まないのですか?」とぼくは訊ねた。愚問だとは思ったが、つい口から出てきたのだから仕方がない。

「わしに、酒を飲むための口がないことをからかったのか?」と訊ねられる。

 まるで叱責するかのような訊ね方にぼくはびっくりして、

「いえ、そんな……すみません……」と謝罪した。

「ハハハ、そんなに畏まることはない。わしはしっぽだから、口がないように見えるかも知れないが、口に似たところはある。それに鼻に似たところもあるし、耳に似たところもある。目もある。それでないと、あなたとこうしてコミュニケーションがとれるはずがないだろう」

 確かにそうだ。しっぽはさっきから普通にコミュニケーションをとっている。これは何もかも人間と同じものを身につけてこそできることだ。

「まあ、しかし」としっぽはさらに続ける。

「これからは、コミュニケーションがどうのという世界にはわしたちはいなくなる。あの世という混沌の世界に入るんだ。あなたは怖くはないかな?」

「もちろん、怖いです」とぼくは答える。今からあの世に行くぞと言われて、はい、喜んでとお供をする者はいない。あの世とは死んだ後に行く世界なのだから、きっと気味が悪い世界に違いない。

「あなたは、あの世とは、どこにあるか知っているか?」としっぽは訊ねる。

「知りません」もちろん、そんなことは知らない。

「あの世はここにある」と不思議なことを言う。そして、

「あの世はあちらにもある。そしてどこかにもある。あなたがいるこの世界は、あの世に取り巻かれているのだ」ともっと不思議なことを言う。

「大体、この世とはどこにあるか知っているか?」としっぽは訊ねる。

「ここにあります。ぼくのいるここです」これは尋常の答えだ。

「こことはどこにあるんだ? ここと言われても、どこにあるのかを明確に説明したことにはならない。こことはどこなんだ?」

 ここはここです、などと答えたらまた叱られるだろうと考えて、ぼくは黙っている。酒が入って少し気は大きくなってはいるが、しっぽが異形の存在だという認識はしっかりとある。