いとしの電話ボックス 第十回 | 中川忠の小説です。

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中編小説を掲載しています。方針を変更して、毎日の連載にします。

 敬介はすっかりうろたえて、萎えてしまった。こんな所にはいたたまれないとも思った。早く逃げ出して、家に帰りたいと願った。

 昼休みになって、スィッチ課から離れて一人で食堂に向かう時に、少しは息をつけた。でもそこでは大勢の人が縦横に歩いて来るから、気は休まらない。

 彼は顔を俯けてうどんをすすっていた。そして煙草を吸いながら考えている。

 昨夜文緒とあったことは、全て夢か何かなのだ。彼は何か大きな思い違いをしている。彼女は彼のことなんか全く好きではなく、もちろん結婚する気など全くない。とんでもない夢を見たものだ。

 ある程度気を取り直して、敬介はスィッチ課に戻った。白い制服に着替えてエアの洗礼を受ける。文緒が椅子に座っていて、入って来た敬介を訝しげに見つめていた。彼はどうしていいのか分からずに、入口付近で立ち止まったままだった。

 やはり彼女の表情には、全く親し気な様子はなかった。まるで変質者を見るような目だった。そんな目までされて、なおかつ彼女に微笑みかけようなどとは思えない。こちらも無愛想な顔になって、通り過ぎて別室に行く。そこにはやはり他の主婦たちがいるが、彼の顔は無愛想なままだ。

 そんな時文緒がこちらの部屋に入って来て、昼からのみんなの作業の準備を始めた。彼女と同じくらいの年代の広田という名前の女性の同僚が入って来て、彼女の耳に何か囁きかける。文緒はちらりと敬介を睨みつけて、少し大きな声で、「そうなの」と相手に同意をするような言葉を吐く。

 何が「そうなの」なのか分からなかったので、敬介の耳は文緒と広田さんの会話に吸い寄せられた。文緒はこんなことを言っているような気がした。

「そう、電話がかかってきて──それで今日は知らん顔で──どういうつもりだか──何だか気味が悪いわ」

 明らかに敬介のことを噂している。しゃべりながらちらりと彼を見たようだ。敬介は顔が真っ赤になった。怒って真っ赤になったのではなくて、恥ずかしくて真っ赤になったのだ。

 彼は昨夜八時頃文緒の家に電話をした。どんどん話が盛り上がって、二人は別世界に飛んで行って、そこで結婚式まで挙げたりした。

 しかしそれは事実なんかじゃなくて、事実は、彼が文緒の家に電話をして、文緒が出たというのに、何を言いたいのか分からずに話は切り上げられて、彼女の方はただ気味が悪いだけということになっているようだ。

 そう思われているとしたら困る。彼は本来の世界での事実については、正直な話、よく知らないのだ。別の世界に行って王様などに会って、文緒が彼に親し気だったという記憶しかない。それが間違った記憶だったとしたら、彼は間違っているのだろう。

 事実としては、彼はただ変態の男だと思われているのだ。だとしたら何とか弁明しないといけないが、彼にはそんなことをする勇気はない。それにそんな妄想を見るくらいだから、彼の精神状態はかなり悪いのかも知れない。事実かどうかを究明する前に、早く病院に駆け込んだ方がいい。

 その日一日敬介は針の筵の上で働いていたようなものだった。文緒はずっと愛想が悪かった。広田さんも変な目で彼を見た。弁明しようにも、彼女たちに話をする暇もなく、暇があったところで、彼にはそんなことはできなかっただろう。

 やっと就業時間が終わって、彼は白い制服を脱ぎ捨ててそそくさと家に帰った。

 母の顔がとても懐かしいものに見えた。昨夜電話ボックスから帰った後に見た母の顔は、うるさくて面倒なものに見えたが、恋に破れた今は、全く逆なものになっていた。

 母の手料理のオムレツを食べて、ごはんを頬張り、敬介はこれでいいんだと自分を納得させていた。彼には恋などというややこしいものは似合わない。そんなものに現を抜かす暇があったら、今まで世話になった母に少しは優しい言葉をかけるべきだろう。

 結局優しい言葉はかけられなかったが、母に対する感謝の情はちゃんと胸の中にしまってあった。そして彼は今一人で部屋にいる。久しぶりに本でも読んで、知的な夜を過ごそうかと考えている。

 ところがそんな風に割り切っていたにもかかわらず、文緒の姿がいつまでも彼の脳裏から去らなかった。昨夜のあの王様のいる世界での楽しさが心の中に甦る。やはり彼女は、二人の仲を他の会社の人たちに知られたくなくて、わざと無愛想にしていたのだという、とても得手勝手な理屈が、彼の頭の中を去来する。