いとしの電話ボックス 第九回 | 中川忠の小説です。

中川忠の小説です。

中編小説を掲載しています。方針を変更して、毎日の連載にします。

 ある所まで来ると、自動車がゆっくりと止まった。そして前の男たちの一人が、

「取りあえず今日のところはここで止まっておきましょう」と言う。

「今日のところは、ってどういうこと?」と文緒が訊ねる。

「文緒さんと敬介さんのお目覚めの時間です。お二人はそろそろ本来の世界に帰らないといけません」

「あらそうね。いつもそう言われて、帰るのを忘れていたことを思い出すわ。けれどもせっかく首都のパパパパパーリンの近くまで来たのに、ここで元に戻るのはいやだわ。せめて首都の中まで入って下さらない?」

「それはできません」

「どうしてできないの?」

「首都に入ると何かとお忙しくなりますから、そこでゆっくり休んで本来の世界に戻る時間はないと思われます。だからここでお二人には本来の世界に戻っていただくのです。明日またお出で下さい。この自動車の中からドラマは始まります」

「まあ、ドラマが始まるの?」文緒はドラマという言葉を聞いて喜ぶ。女性はドラマを好むものだ。

「こちらのドラマを楽しむために、あちらの本来の世界でもドラマを楽しんで下さい」と男は言う。

「本来の世界はあまり楽しくないの。ただ単に会社に行って働くだけの毎日だから」と文緒は打ち沈んでいる。そして敬介に向かって、

「あなたもそうでしょう?」と訊ねる。

 敬介はもちろん会社で働くことなんか嫌いだから、

「うん、ぼくも楽しくない」と同意する。

「でも帰らないといけないのよ。あなたにもお母さんがいるでしょう? わたしにもお母さんがいる。わたしたちが本来の世界に帰らないと、お母さんたちが心配するの。お母さんたちを心配させてはいけないでしょう?」と訊ねられて、そんなことどうでもいいとは答えられない。

「うん、そうだね」とまた同意した。

 するとだんだん眠くなってきた。そしてハッと気がつくと、敬介は電話ボックスの中で座り込んで眠っていたようだ。夜は随分暗い。何時だろうと腕時計を見ると、まだ八時を十分ほど過ぎただけだ。あんなに長いこと向こうの世界にいたのに、時間は少しも経過していない。

 かたわらに文緒はいない。また明日会社で会うのだからいいかと考える。二人はもう仲良しなのだ。仲良しどころか、結婚式まで挙げたのだ。立派な夫婦ではないか。

 自転車で家に戻って母の顔を見る。母は「どこに行っていたんだ?」というような顔をして、息子を見る。しかし口には出さない。息子もわざわざどこに行っていたかなんて言わない。

 風呂に入って、少し読書をして、早めに寝る。明日文緒に会えるのが楽しみなのだ。会社などに何の楽しみもないが、文緒に会えるというのは、心が浮き立つ出来事だ。

 久しぶりに気持ちよく眠れる。そしてあっという間に朝になり、支度をして出かける。一駅だけ電車に乗って駅から歩く。会社の建物に入り、奥の方にあるスィッチ課の部屋の中に入る。入口でエアの洗礼を受ける。

 見ると文緒は既に来ていて、テーブルの上にある雑誌に目を落としている。敬介は彼女のそばに立って「おはよう」と元気に声をかけた。

 文緒は雑誌から目を離して、敬介の方を見上げる。その目は昨夜あの世界で見たような愛想のいいものではない。「なに、この人?」とでも言いたげな、険悪なものだった。

 敬介が浮かべていた笑顔がスーッと引いていった。そんな無愛想な顔で見られたら、恋する男としては、自信を喪失しても仕方がない。

 彼は別室の作業場に入って、他に来ている女性たちに混じって、ぼんやり座っていた。彼は文緒の指示で働くだけだから、仕事の準備といっても、何もすることはない。主婦の女の人たちとしゃべるにも共通の話題はないから、何も話しかけることすらできない。

 どうして文緒は突然無愛想になったのだろうと、敬介は考えた。彼ら二人は結婚をしたのではなかろうか。それともあれはただの妄想で、現実には存在しない事実なのだろうか。だとしたら、彼はもはや文緒に親しげにするわけにはいかない。そう思うと、彼はとても悲しくなった。昨夜あの世界ではあんなに楽しかったのに、あの楽しさをもう味わうことができないなんて。

 仕事が始まったが、文緒はやはり敬介に対して無愛想なままだった。二人の仲を他の人たちに知られてはならないという配慮でそうしているのかとも思ったが、彼女の様子を見ると、そうとも感じられない。時々彼と目を合わしても、険悪な影はなくならない。