I am a book 第三十六回 | 中川忠の小説です。

中川忠の小説です。

中編小説を掲載しています。方針を変更して、毎日の連載にします。

 始めの頃は少し険悪だった百合さんの顔も、だんだんと優しくなってきた。仕事がうまくいってきたようだ。しまいにはホホホとふざけて笑ったりした。

 人間は、部屋に一人でいたら、すっかり気を許して、どんな行動を取るか分からない。幸い百合さんはびっくりするようなことはしないが、人によっては正視に耐えないような恥ずかしい行為をすることもある。それは決してエッチなことを指して言っているんじゃない。エッチなことは、実は俺たち死んだ者たちにとってみても、とても神聖なものだ。それがないと、生きている者は種を存続させることが出来ないのだから、とても大切なことなのだ。

 たとえ自慰行為であっても、それは決して恥ずべきものではない。俺たちはそんなものを見て、笑ったり、目をそむけたりはしない。

 正視に耐えないような恥ずかしい行為というのは、ここでもそう簡単に言ってしまいたくないほど、嫌悪感を感じる行為のことを言っている。

 たとえば……いや、言いたくない。簡単に言うと卑劣なことだ。卑劣な奴にはすぐに思いつくかも知れないが、卑劣さの乏しい人にはなかなか思いつかないものだ。

 職場でおとなしい同僚の尻を蹴るよりもはるかに卑劣なことって、世の中にはあるんだ。

 百合さんは大喜びの体でパソコンの電源を切った。そして「はあーっ!」と叫ぶように欠伸をして、立ち上がり、トイレに入った。

 時計を見るともう十二時近くになっている。

 彼女は冷蔵庫を開けて、中からサラダを出した。またサラダだ。彼女は家にいる時はサラダばかり食べている。その分、外に出た時にはごはんとか肉とかラーメンとかを貪り食っている。

 何しろワンルームマンションなので、ろくな炊事機器がないのだ。かろうじて電気コンロが一つあるが、それではお茶を沸かすのが精一杯のところで、調理は手間がかかるだけでほとんど出来ない。

 サラダばかりを食べて、外に出たら肉とかを貪り食うという生活に、百合さんは決して不満を抱いてはいない。

「だって、劇的な変化があって面白いじゃない」とある時吟美に向かって言った。

「何それ?」

「外に出る時はおいしいものが食べられると思ったら、それだけで胸がワクワクしてくるわよ。それでこそ劇的だと思わない?」

「思わないわ。わたし、家でも肉を食べたいもの」

 これも吟美に言ったことなのだが、ある日こんなことを言った。

「話にならない人と無理に話をするなんて、そんな無駄なことするの、わたし、大嫌いよ」

「社会に出たらそういう人間がうじゃうじゃいるわ。そんなのをどうやって適当にあしらうかも、大事な人生勉強なんじゃないかな」

「まるで孔子様みたいなことを言うのね」

「こうしさまって、何? 昔教科書に載ってた、あの孔子様ね。ハハハ、そうね、わたしらしくないわね、わたしは、孔子様なんかから一番遠く離れている人間だから」

「そんなことないわ。吟美は他の有象無象と比べたら、物事がよく分かってる。だからこそ、わたしはあなたとは友達でいられるの」

「そんなにおだてても、わたしは喜ばないわよ。だって、あなたに気に入られなくなったら、わたし、とても悲しいもの。だからあなたと会う時は一生懸命なのよ」

「そうなの。そんなに気を遣わせているのね。ごめんね、こんなややこしい人間で」

「まともな人間というのは、ややこしいものよ。逆に付き合いやすい人間の方こそ、気をつけなければならないくらい」

「ほらね、あなたはそんなこと、よく知ってる。だからいいのよ」

「わたしのこと、少しは気に入ってくれているのかも知れないけれど、百合だって、いつかは小説家の世界で生きていきたいと思ってるんでしょう? どんな世界にだっているわよ、あなたが我慢のならない人の十人や二十人くらい」

「そうよね、あなたの言う通りだわ。小説があまり売れてしまうのも考え物ね」

「そうよ、だからあまり売れないような難しいやつを書いていたらいいのよ。あなたが書きたいようにそのままに。そうして株で稼いでいたらいい。小説は趣味ね。そのつもりでやったらどう?」