I am a book 第三十五回 | 中川忠の小説です。

中川忠の小説です。

中編小説を掲載しています。方針を変更して、毎日の連載にします。

四、

 翌日は土曜日だった。土曜日でも、百合さんの日常は変わらない。いつものように七時に起きて、サラダを食べている。そして少しだけカーテンの隙間から窓の外を眺めて、読書の時間に入る。とても静かに時は流れる。

 俺はやはりテーブルの上に置きっぱなしになっていて、椅子に座る百合さんの間近にいる。心行くまで百合さんを見つめることが出来るわけだ。俺にとって、午前中のこの時間は、至福の時なのだ。

 百合さんが何を読んでいるのかは分からない。彼女はいつも本にカバーをかけて読む習慣がある。ほとんど家でしか本を読まないのに、いつもカバーをつけている。

 ある日吟美にこう言っていた。

「今読んでいる本の題名とか作者とかを見られるのは、まるで裸の自分を見られるようで、恥ずかしいわ」

「あら、わたしなら、本を読んでいるなんて、知的だなと思われそうだから、人前でもカバーをつけずに本を読むわ。大体本なんか読まないけど。こちらをチラチラ見る男たちの品定めをしているだけよ」

 吟美はこう返した。そして、

「そう言えば、わたし、あなたの書いた小説って読んだことなかったわね。今度、読ませてくれない?」と頼んだ。

「嫌よ。わたしは、正式に本にならない限り、わたしの書いたものは誰にも読んでもらいたくないの。新人賞に落ちるということは、本になる価値がないってことでしょう? そういう価値しか与えられていないものを読まれるのは、絶対嫌」

「まるで裸を見られたように?」

「もっと凄いものを見られたようで、嫌」

「もっと凄いものか、そうね、そんなの、わたしも見られたくない」

 そういう対話が三週間ほど前にあった。

 だから百合さんが何の本を読んでいるのかは、俺にはいつも分からない。それが分からないから、俺の心の中には時々寂しい風が吹く。題名の一部でも分かれば、それについて考えを巡らせて、少しは百合さんと共通の世界に漂うことが出来るだろうに、と思うのだ。

 これはかなわない願いだが、百合さんと少しでも対話が出来れば、百合さんの読んでいる本の世界について語ってもらい、俺もそれについて何か語るという、夢のように幸せな時間を過ごすことが出来る。

 そんな妄想を膨らませながら目の前の百合さんを見ていると、俺の体の緊張がより一層強くなっていった。

 俺は本だから、体のどこかが痛くなったりはしないし、このように緊張することも以前はなかった。古本屋では、尻を蹴る者もいなかったから、気楽に時を過ごしていた。

 今は気楽ではない。百合さんを見るたびに緊張を感じるのだから、気楽ではないが、古本屋時代の気楽さと比べると、緊張を感じる今の方が幸せだ。気楽さより緊張の方が幸せだなんて、不思議な現象だが、恋とはおおむねそのようなものだと、この頃になってやっと知った。

 十時頃になると、百合さんはノートパソコンをテーブルの上に乗せて、画面を見ながら時折キーを叩いている。これが百合さんの全生活費を稼ぎ出している、株の仕事だ。

 この作業をしている時の百合さんは、読書をしている時の彼女とは様子が全く違う。発する空気も少し険悪になっている。

 金を稼ぐとはそうしたものだ。人を険悪なものにするのが金というものだ。俺も人間時代に少しは働いた経験があるから、知らない訳ではない。時にはおとなしい同僚の尻でも蹴りたくなるほど、イライラすることがあるものだ、金を稼ぐということは。

 しかしいくらイライラしていたからといって、同僚の尻を蹴るのはひどい。そんなことをしないと気がすまないほど仕事が嫌なら、辞めればいいのにとは思うが、そういう奴ほど辞めないものだ。

 そういう奴は、どんな仕事をしても嫌に決まっているから、誰かをいじめて気晴らしをしながら、給料日に貰う金を目当てに毎日仏頂面をして出勤してくるのだ。仕事を辞めたところで、そういう奴は他に何もすることがない。しまいにはカツアゲとか強盗でもするようになるのが落ちだ。

 要するに、そういう面白味の全く欠如した人間というのは、金を使って他の人に偉いと認められたいだけなのだ。どこかの店員に『お客様』と呼ばれて頭を下げてもらい、そのことによって優越感を覚える。金さえあれば人は自分に頭を下げてくれるものだと思うようになる。そうしていつの間にか会社の奴隷になるのだ。会社を辞めたり、出世のレールから外れたりしたら、誰も頭を下げてくれないようになるから、会社の中ではペコペコ頭を下げて回るわけだ。

 俺は、そんな会社の奴隷になりかけの若造たちに尻を蹴られたわけだ。しかし尻を蹴られて首を吊ったおかげで、今はこうして百合さんと同じ部屋で過ごすことが出来る。今頃すっかり会社の奴隷になりきっている、あの若造たちよりも幸せなんじゃないか?