千葉市のフラクタル心理カウンセラー
林 秀子 です。
今日は、知り合いが自殺したことが気になっていて、憑依されたら困ると思っている方からのご相談です。
Bさんには、Aさんという友人がいました。
(共に50代の女性)
Aさんと、あるセミナーで出会って まだ1年ですが、何にでも興味を持つ行動的なAさんとはとても気が合っていました。
二人の距離は離れていましたが、誘い合わせていろんなセミナーに参加していました。
会って楽しく話した数ヶ月後に、
久しぶりに電話をすると、ご主人が出て、
『家内は亡くなりました』と言いました。
聞けば、自殺だったとのことです。
「あの時は 私を誘ってくれたのに。なんで? 」
「悩んでいたの?」
「信じたくない、嘘であってほしい」
Bさんは、人に話すのはいけないような気がして、
心で友人に問いかけながら、胸にしまっておきました。
ーーー1年後ーーー
Bさんの近所で火事がありました。
そこは、Bさんの同級生の家でした。
同級生とお母さんの二人暮らしで、お二人とも亡くなられたそうです。
現場の様子から、自殺だったという噂が流れました。
遠くの親しい人が自殺した次は、距離が近く、関係も比較的近い人物が自殺した。
(続いているのはどういうこと? あの人達が憑依して今度は私の番が来るの?)
Bさんは 気になって仕方がありませんでした。
自殺というのは、自分で自分の命を絶つわけです。
「死にたい」と思っていても、
正常な意識状態だと、怖くなって実行しない人の方が多いでしょう。
自殺を実行した人の言い分を考えてもらうと、
「希望がなくなった」
「これ以上は生きていけない程辛かった」
「耐えていたけど もう限界だ!」
と言っているような感じがします。
そして、自殺するしかないように仕向けたであろう
酷い目に合わせた誰かがいるだろうと思う。
親を含む家族や仲間は、その人の窮地を救ってくれなかったと思う。
何も役に立たなかった(気づかなかった)私も、悪い人になるのではないかと思う。
確かに、自殺した人がニュースになる場合は、
未然に防げなかった行政などの責任が囁かれます。
責任逃れで自殺したと言われる人もいますが、
自殺した らイコール「追い詰められた被害者よね」と同情されて、
結果 周りを責めることになる場合が多いですね。
どうして自殺という手段をとったのでしょうか?
その人の言い分と思う内容が、
とても気になると言っている Bさんの
心の叫びと同じと言えるでしょう。
「生きているのが辛い」
「お金が無くて、生きていけるだろうか」
「政治が何も解決してくれない」
「家族も学校も社会も、誰も守ってくれない」
「周りは私が生きやすいようにしてくれない」
「辛い」という訴えは、
誰かを責めたり、あるいは何かへの抗議、
つまり 恨み という攻撃です。
究極的には、生まれてきたことへの恨みであり、
この世に自分 という存在を生んだ親に責任がある とまで 行く感じですね。
Bさんは、
自分の中の何かを 私も殺している、
”被害者の意識と同じものがある”と気づきました。
本当は自分の考え方に原因があるのですが、
【自分がうまくいかないのは誰かのせいだ】
と捉える傾向があったのでした。
自殺した人が 憑依することはありません。
誰かが消えると、押し隠していた同じような思考が、表面化します。
自分の思考を他人に投影したが、
その投影先がなくなると、自分の中に戻る。
それで不安になったと言えるようです。
あの人が死んでしまったと思うとしても、
それは 自分 の一部という仕組みなので、
恨みがましい自分が姿を消したと考えられます。
色即是空・空即是色の世界観。
人間の意識が現象を作り出すという理論は、
実験の結果として物理学で証明されています。
これで考えると、
全ては自分が先、自分が中心となり
「親が私を生んだ」が、「私がこの親を創った」となります。
このあたりを、ジックリ取り組むと、
恨みの念、そのものが姿を変え、
行動に大きな差が出てきます。
「人生は自分が創造する」という観点に立てば、
岐路で選ぶ道は 力強いものになり、
Bさんが自殺を選択することはなくなるでしょう。
理屈はどうあれ、自殺はいけません!
素晴らしい人生を生きると決めましょう!
心からの愛と感謝をこめて。