悪の芽があるとするならば
なるほど善の芽もあるのですね。
世の中全てが
善であふれたらいい。
優しい世界になったらいい。
世の中全てのひとが
想像力を働かせることができるくらいに
余裕のある世界になったらいい。
息子くんたちがいまよりもっと小さかった頃。
大き目のバッグを肩にかけて
ベビーカーを片手で押して
もう片方の手で長男くんと手を繋いで
新幹線で帰省していたとき
新幹線から降りる際や
ホームから改札に向かう階段やエレベーターを利用する際
ときどき
いろいろなひとたちが声をかけてくださいました。
「荷物持ちますよ」「ベビーカー運びますよ」
そのひとことで
どれだけ救われたことか。
新幹線で子供達がぐずってはいけないと
おもちゃやお菓子をたくさん詰めたバッグは
とても重くて
階段を利用するときに畳むベビーカーも
とても重くて
さらにそれを畳むときに
抱っこ紐でわたしの胸元におさまっている次男くんが万が一落ちることがないように
気をつけて気をつけて
その責任もとても重くて
だけどそれだけじゃだめで
さっきまで手を繋いでいた長男くんが
手を放した瞬間どこかに行ってしまわないように
絶えず話しかけて
こちらにばかり注意を向けて
見守って見守って
誰の迷惑にもならないように
神経をすり減らしてクタクタになっていたわたしに
そのひとことが
どれだけ救いになったことか。
ありがとうございますと言いながら
恐縮する思いもあって
うっかり泣きそうになっていたわたしを
まざまざと思い出しました。
あのときのあのひとたちは
想像力が優れていたのか?
大変そうな母親を見て
大変そうだと
荷物を持てばすこしはラクだろうと
声をかけてくれたのか?
子供の泣き声を「うるさい」と一蹴するひとたちは
想像力が欠けているのか?
その悪意を向けられた母親が
その後どんな気持ちで過ごすのか
その母親が
こんな理不尽な言葉を投げられるのは
この存在のせいだと
もしかしたら自身の子を憎むようになるかもしれないことなど
想像もできないから
いい八つ当たりの材料を見つけたというかの如く
自分の苛立ちを剥き出しにして
攻撃できるのか?
それも僅かにはあるだろうけれど
想像力のなさはなんの罪でもない、
人間の想像力には限界があるし、
すべてを想像しすべてに対応するのは、
人間には不可能であり
「優しさの欠如とは別問題」
だとここでの主人公は結論付けている。
想像ができても
実行する勇気が欠如していたら
見知らぬ他人に優しくはできないですしね。
ともすれば優しさと勇気はイコールで
それができない背景には
ゆとりのなさが大いにあると思う。
金銭的な問題であったり
時間的な問題であったり
物理的な問題もあれば
自身の抱える心理的な悩みであったり
ゆとりをなくすには充分なこの世界。
それでも僅かな希望があるうちはまだいい。
その僅かな希望さえ失くしてしまったとき
人間は絶望する。
絶望は
人間に悪の芽を宿らせる。
絶望は
悪の芽をすくすくと育たせる。
こわい世界になっていくのが恐ろしい。
世の中が後退して行く。
そんな世界
見たくないのです。
優しい世界で
あって欲しいのです。
