ドラマの話~「Tシャツが乾くまで」など | 10月の蝉

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取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

芝居もそうだけど、ことテレビドラマにおいては「共感」はとても重要な要素になってる。

登場人物の言動に共感できるかどうかが評価のポイントになっているのだ。

主人公の気持ちに同調することでその物語に深く入り込み、泣いたり笑ったり怒ったり悲しんだりしてカタルシスを得るのがドラマの醍醐味である。

つい入れ込みすぎて、ドラマと現実がごっちゃになってしまう人は昔からいた。

悪役を演じている俳優をその悪役と同一視してしまって攻撃する人とかね。

いい人の役をやってたからその俳優はいい人に違いないと思ってしまうとか。イメージ戦略ってそういうことなのだ。

 

その伝でいくと、今期の「Tシャツが乾くまで」は、多くの視聴者の神経を逆なでしているようである。Xで流れてくる感想を見ていても、ドラマの登場人物の言動にあれこれ注文をつけていたり、道義的に批判している人が多く見受けられる。いやそれは脚本で構築された人間像なんだけど。

あんなのは許せない、受け入れられない、と思うのはわかる。でも、こうするべきだっただろうとか、こうしなくちゃいけない、そうしないそいつは許してはいけないやつだ、まで行くと、ちょっと待てと言いたくなる。あまりにも没入しすぎているのか、線引きできていないのか。

 

まあ、他人の感想は他人のものなので、ふむふむ、そういうふうに受け取る人がいるのね、と思いながら読ませてもらっている。面白いよね。道徳的な人、道義的にまともであろうとする人ってたくさんいるんだな、と思う。そういう人がいないと社会がまっとうに働かないからね。

 

昨夜第6話が放送されたのだが、ここまで私は、共感も感動もないまま、それでも面白いなと思って見続けてきた。そして昨夜はその「わからなさ」が最高に面白いと思った。

ドラマの感想を書く前に、どうでもいい感想を一つ。第6話の松山ケンイチはなんかすごく二宮和也に似て見えた。しれっと、きょとんとしている感じもそうだし、なんだか顔立ちまで似て見えて不思議だった。どうでもいいことなんだけど。

 

さて。第6話は、衝撃の「充の帰宅」から話が始まった。

第5話の終わりで「ただいま」と玄関先にたたずむ充の姿を見て思わず「なんで!」と叫んでしまったので、どう展開していくのかとても興味深かった。

咲子は怒らないんだな。いや、怒ってるというし、実際平手打ちもしたりするんだけど、なんというか、劇的な爆発はしない。どうやら彼女の母は過干渉な親だったらしいから、もしかすると、感情をあらわにするとめんどくさいことになる、と過去に学習してしまったのかもしれない。だから、つい笑顔を作ってしまったり、語調を抑えてしまったりしてしまう。

見ている方はじりじりするよね。言えばいいのに、もっとはっきり問い詰めればいいのに、と思ってしまう。でも生方脚本ではそういうことはさせないのだ。どうでもいいような日常会話をまぶして、間にちらっちらっと重要なことを言う。どうしても、会話全部をそれ一色にできないのだ。それっていうのはつまり、「どういうことなの。何があったの」という説明の要求。

こらえきれずに問いかけるけど、腰が引けていることもあって、充がちょっとでも言いよどむと「いや、いい」と止めてしまう。また、充が説明しないんだよねえ。ほんとにしない。彼もまた、大事なことの周囲をぐるぐると歩き回るような言葉しか出してこないし、ようやく出してきたかと思えば、「よりによってその言い方はないだろう」みたいな言葉になってる。正直な気持ちなのだろうけどね。「嘘はつかない」という約束をしてるから。その約束は守ろうとしてる気がする。たぶんだけど、咲子以外の人間にはずっと「嘘」をついてきたんじゃないか。回想の結婚式でのシーンでも、とてもにこやかに他人と接していた。その時の笑顔と、会場を抜け出して喫煙所でタバコを吸っていたときの表情は全く違ってた。世間に対して取り繕って生きてきた人なのかもな、と思ったのだ。

花嫁が手紙を読む場面で会場を抜け出すのは失礼だ、と怒ってる感想を見かけた。うん、失礼だね。でも、そういうことをしてしまう人、という描写でもあったのだ。

咲子は自分の親との関係性からしんどくなってしまったのだし、充もまた何かしらの親子関係のこじれからそういう場に嫌悪感を持っていた。

充は回避性の愛着障害があるんじゃないか、と考察してる人もいたなあ。

付き合いだしてすぐの「海外出張」(実は嘘だったけど)も、これから始まるであろう人間関係の重さを予期してしまい、後先考えずに逃げだしてしまったんじゃないか。

私もそういうタイプの人を知っている。相手に対する気遣いだとか思いとかとは無関係に、自分自身がつらくてしんどくていたたまれなくなってしまうから、衝動的に逃げ出してしまうのだ。

そこに相手への気持ちはないから、というかむしろ相手への好意とかはそのまま残っているから、自分が回復できたらそのまますっと戻ってこられるのである。

相手の気持ちを考えることはしないのか、と糾弾されたら「あ、そうでしたね」とびっくりするくらいの感じ。悪気はないのだ。やられたほうはたまらないけどね。視聴者の反感はたぶんこっち側なんだろう。やられたほうの気にもなれよ、って怒っちゃうんだろうな。

 

終盤で、あずさとの不倫関係を疑われた充が反論する。このシーンが非常に興味深かった。面白かった。暗黙の前提みたいなものが白日の下に引っ張り出されている感じがしたから。

事実としては、充は毎月第3金曜日にコインランドリーであずさとおしゃべりしていた。あの日は初めてコインランドリー以外で会った。一緒にバスに乗って長野へ行った。途中のサービスエリアで充だけなぜかバスを降りた。そののちバスは転落事故を起こし、あずさは死んだ。

それだけのことだ。身もふたもないことを言えば、あずさが死んだのは充の仕業ではない。運悪く運転手が病死し、バスが川へ転落したせいだ。ただ、その旅行になぜあずさを連れていったのか、という一点が、残された者たちの疑問(というか怒り)のポイントだった。

一方、残された咲子と樹生は、欠落を埋めるように寄り添い、多くの時間をともに過ごすようになった。土曜日のコインランドリー。子供も一緒の食事。第5話では片づけの手伝いのために咲子の家に来るまでになった。あ、咲子は何度か樹生の家に行ってるなあ。

二人の認識としては、あくまでも事故の関係者として、さらには不倫疑惑のある配偶者同士の仲間意識?みたいなものでつながっていた。恋愛感情と呼べるほどのものはなく、もちろん肉体関係なんてものはない。不倫というとすぐに肉体関係を想像するけど、そしておおむねそういうものではあるけど、このドラマにおける「不倫(疑惑)」はそういう安直なものではないのだ。

気が合って、楽しくおしゃべりできる相手。そういう相手がいることをひとっとびに「不倫」と呼んでいいのだろうか。

充が反論している場で浮かび上がってくるのは、充とあずさの関係は肉体関係を含むよくある不倫関係である、という前提のもとに、充を糾弾している樹生と咲子の無自覚の認識である。

充の反論に「お前がいうな」と反感を覚えた人が多かったみたいで、それはつまり「充とあずさはよくある不倫関係だ」という前提を無自覚に持っているからなんじゃないか。だから充に「証拠は?」と聞かれたときに言葉に詰まるのだ。ただ一緒にいたというだけで「不倫だ」と決めつけていたから、それ以外の証拠(たとえばラインのやりとり、ホテルへ入るところの写真など)があるわけじゃない。

配偶者以外の異性と親しく話したら不倫である、という理屈でいくなら、樹生と咲子の関係だって不倫だということになる。もちろん樹生と咲子は否定するよ。そういうつもりではなかったから。でもはたから見たら同じことなのだ。コインランドリーで楽しそうに話し込む充とあずさ。

楽しそうに話しながら橋を渡る樹生と咲子。どっちも同じだと言い切られたら、そりゃ当事者は反論するだろう。

あのシーンでの充の口調、選んだ言葉は不適切ではあったと思う。でも、あれはきっと、素の充なのだ。人当たりよくふるまう仮面の充ではなく。

 

あずさについての情報はまだ出ていないことがたくさんありそうだ。あずさの事情については樹生もよく知らないみたいだし。

親子関係って、やっぱり他人からはわからないものなのだ。密室で何年もかけて形成されてきた空気や関係性は、そうじゃない人には理解しづらいものがある。特に、問題なく円満に暮らしてきた人には想像することすら不可能なのかもしれない。

充も咲子も樹生もあずさも、それぞれ親との関係に問題を抱えている。あの歪みはそこから出てきているんだと思えてならない。

そういえば、樹生の「泣きました?」にはちょっと笑ってしまった。あの場でああいうふうに聞いてくれることのありがたさもあるんだけど、そのノンデリな発言はまんま母親ゆずりじゃないか、とも思ったから。咲子だからほっとして笑ったけど、そうじゃなかったらカチンときたかもしれない。 

 

生方さんの脚本は一筋縄ではいかないところがあって、そこでそういうセリフになるのか、と驚くことが多い。予定調和にいかない感じがすごく好きだし、じりじり、イライラ、もやもやするところも好き。ああいう脚本が書いてみたいと思う。