物言えば唇寒し | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

最近独り言が増えました。増えたうえに、かなりの音量でしゃべってます。一人芝居してるときくらい、明瞭にしゃべってる。

ゆうべは猫様に話しかけてました。そしたら猫様がうんざりしたらしく大あくびをかましたんですが、どうやら変な具合にあくびをしてしまったらしくその後むせてました。ケヘケヘいって、なんならちょっと吐きそうでした。申し訳ない。

 

私はTwitterのスクロール中毒で、気づくと長時間眺めているんですが、自分はめったに投稿しません。芝居の宣伝とか、ふと思いついたポエムとか、映画鑑賞の記録とか、そんな程度。

世の中の事象についての見解や意見、感想などはまず投稿しません。なぜなら怖いから。

Twitterを眺めていると、ありとあらゆる投稿に信じられないようなリプライがぶらさがっています。見ず知らずの赤の他人にズケズケと侮蔑を投げつける人がいたり、それについては言ってないじゃんというようないちゃもんをつけている人もいます。

いつからあんな殺伐とした世界になっちゃったんだか。それを眺めている私も同罪っちゃあ同罪なんですけども。

そういうのを常時見ているせいか、いざ自分が何か投稿しようかと思った時に瞬時にそれらのクソリプが脳裏に浮びます。こう言われるかもしれない、ああ言われるかもしれない、なんて思うと、まあわざわざ投稿しなくてもいいか、と諦めてしまうのです。

そのわりに気合い入れて投稿したやつなんかはきれいにスルーされちゃうので、案外見られてないのかなと思ってご感想ポストを投下すると、すかさずぎょっとするようなリプライがついたりする。いやはやおっかないです。

 

ここ数日で思ってることの一つに「演劇のチラシについて」があります。

私が知っている界隈には、紙のチラシを蛇蝎のごとく嫌う方がいて、常々紙チラシの廃止を提唱されているんですね。ご自身が紙チラシの持ち帰りを嫌っているようで、そこから紙チラシ不要論(論ってほどじゃないかもしれないけど)をたまにTwitterに投稿されています。

たまたまなのかもしれないんですけど(もしくは別の気運だったのかもしれないけど)、演劇界特に小劇場界隈でこのチラシ問題が言及されているのをいくつか見かけました。長くやっている方ほど、「やっぱり紙チラシの存在は大きいよ」と思ってらっしゃる感じがしました。

私も、紙チラシはあってほしいと思っています。確かに最近はネットで、SNSで宣伝もできるようになりましたが、それだけだとどうも存在感が薄い気がしてならないのです。

先月やったラボニバスはデジタルチラシのみでした。紙のチラシは作らないという方針だったんですね。観に来てくれる方の負担と、制作するこちら側の負担(主に金銭的なものかな)を考慮して、デジタル表示のチラシのみにしていたのです。これがどうだったかというと、私の感じではちょっと宣伝が弱かったんじゃないかなと思っています。

TwitterやInstagramで何度か流したとしても、この手の情報はすぐに流れていってしまいます。あるいは、人がその画面を見るタイミングというものもあって、タイミングがずれたら目にとまらないまま終わってしまう。人に紹介するときに、スマホの画面だけっていうのはちょっとインパクトにかける気がするんですね。そこは紙のチラシを渡して、物理的に紹介したほうが印象に残るような気もします。

観劇したときに挟み込みされている他の劇団のチラシは、一度は手に取って見るわけですから、何かしら記憶に残ったりするし、後から見返すときにとても簡単です。いちいちデバイスを開いて探さなくてもいいわけだから。

観劇後も記念として残ります。そうやって残したい人もいるんですよね。

だからやっぱり、紙のチラシはあったほうがいいなと私は思っているのです。

でもそれはポストしない。ここならこうやって長々書けますけど、Twitterじゃそこまで書けないから。どうしたって言葉足らずになるし、書いてないことに突っかかってくる人もいるんでね。

 

選択制夫婦別姓制度にしたって、呆れるほどに愚かな投稿を見かけますけど、それについて何か言おうとは思わない。もう、Twitterは気軽に意見や感想を投稿できる場じゃなくなってしまったのかなと思います。いちいち他人の投稿に反応しすぎ。穏やかな交流ならまだしも、侮蔑やけんか腰、やみくもな否定がたちまちくっついてきて、挙げ句の果てにはインプレゾンビが湧いてくる。ずいぶん荒れ果てた場所になってしまったんだなあと思います。そう思いながらも自傷行為のように毎日眺めてるんだから、あたしもたいがいアホですわ(笑)