二月尽 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

今日の豆知識。新聞の隅っこにあった記事より。

 

「尽」は「月の終わり」という意味があるそうで、だから今日は「二月尽」である。

 

今月1日が日曜日だったので、日曜日始まりのカレンダーはきっちり4行で収まっている。

(月曜日始まりだと1日足りないけど)

なんということもないんだけど、きっちり収まっているのを見ると気持ちがいい。

 

今日も暖かくて、青空が広がっている。いわゆる「お出かけ日和」である。

最近とみにお出かけが億劫になっている。

必要な外出は仕方ないんだけど、今日みたいに何の予定もない日には本当に外に出たくない。

どこにも行きたくない。

今朝の新聞折り込みに、旅行会社のチラシが入っていた。日帰りもしくは1泊のバスツアー。

いろんな行先があって、旅行会社の人も一生懸命プランを考えているんだなあと思いつつ、じっくりと読む。そして読んだらそれで満足する。実際に行こうとは思わない。

家にいて、あれこれ想像しているのが楽しい。

4月に上演予定の芝居では、まさにそういうバスツアーに参加した人を登場させた。

一人旅が好きでいろんなバスツアーに参加している人と、ちょっとむしゃくしゃして思いつきでバスツアーに申し込んでしまった人が仲良くなる話。見所をどう作るかが今の課題である。

 

母が一時危篤状態になったことで、周囲が慌ただしくなっていた。今は小康状態で落ち着いているけど、いつどうなるかはわからない。

母自身が延命処置をしないと医者に告げたそうだ。これは以前からずっと言っていたことで、それでもこの状態でも言うんだから本気だったのだなと思う。

私も、どこかのタイミングでそれを周囲に告げておかなくてはいけないなと思う。

私なんかでも、いざ死にそうな状態になったら周囲は慌ただしくなるんだろうか。そうなる前に、ぱったり逝けたらいいんだが、人生そうそう都合良くいくとも思えないし。

ほんとに、死ぬタイミングってわからないものだ。不意打ちのように逝ってしまう人もいれば、何度も何度も危ない状態になってまた復活して、という人もいる(私の祖母がそうだった)。

以前母がしみじみと「死ぬのも大変なのだ」というようなことを言っていたことがあるが、本当にそうだと思う。

不可逆的に年はとっていくわけで、病状が悪化して何かしらの治療をしたとしても、その前と同じ状態に戻れるわけじゃない。医学が発展していろんな治療法があるようになってきたけど、老化を逆転させる手段はない。だとしたら、どの段階で終止符を打つかということを考えなくてはいけないのだ。

離れて暮らしている子ども(私やもう一人の弟)はけっこうドライに割り切れる気がするけど、実際に毎日目の前で親をみている弟はそう簡単には割り切れないと言っていた。情ってやつなのかなあ。いちばん親との関係が密なのも彼なので、最終的には彼の判断にまかせようとは思っている。私は口を出さない。手伝えることは手伝うけど、弟の決断に介入することはしない。

なんだかんだ言って、結局何かしら「親の死」について考えてしまっているなあ。

その半分は、自分のときはどうするか、ということではあるんだが。

身辺整理はいつから、どのくらいの程度でやればいいんだろうな。

 

明日から3月。

いまだに3月と4月は気持ちが不安定になるので好きになれない。

春なのになあ。春だからかも。