台本もらってお芝居を作るというときに私がすることは、まず「何が書かれているのか」を把握することです。誰と誰が出てきて、その人たちの関係性はどうなっていて、何が起きて何が起きなくて、最後はどうなるのか。作者は何をいちばん言いたいのだろうか。そんなことを読み取ろうとします。
それぞれの役が使う言葉も、「なぜその単語をチョイスするのか」「どうしてこういう言い方、語尾になるのか」という観点から読みます。人の気持ちや性格はそういうところに現れると思っているからです。「てにをは」や「語尾」にこだわるのはそのせいです。
たぶん、いつも「正解」を探しているんでしょうね。この脚本は、この役は、こういう意図があるのだと理解したい。
あるいは、演出の意図も気になります。演出家はこの脚本をどういう物語にしたいのか、どう見せたいのか。
もちろん、最終的には観た人がそれぞれ受け止めればいいことなので、そういう意味では正解はないと思うんですが、それは結果論であって、最初に作りだしていくときは方向性があってしかるべきだと思っています。
役者が自由に、好きなように、思いのまま演じてくれればいいという考え方もありますが、ほんとにそれだけだと舞台は崩壊してしまうと思うんですね。
演出がいなくて出演者全員で考えました、という芝居を観たことがあるんですが、観終わったあとに「これはいったい何をしたかったんだろうなあ」と思った記憶があります。それぞれの思いが無秩序に広がっていて、漫然とした作品になっていました。
やっぱり、なにかしら形を作って提示してほしいなと思うんですよ。
この考え方の欠点としては、どうしても小さくまとまりがちということがあるんですね。
自分の中でガチガチの正解を追い求めてしまうから、解釈が一つになってしまう。
「この状況で、この言葉をチョイスしてて、こういう言い方をするということは、○○でしかありえない」と思ってしまうわけです。
あと、自分の感覚のフィルターもかかってしまいますね。
私はどうしてもネガティブ指向で、生より死に近い解釈をしがち。
なので、ついつい暗い方向へ向かってしまう傾向があります。
特に一人芝居だと演出も自分でやるので、そこに歯止めがなかなかかからない。
穴の会で他の人が演じているのをみると、いつもとても驚かされます。そんな解釈ができるのか、そんな表現がありなのか、と。視野が開かれる思いがするわけですが、悲しいかな私にはどうしてもそれができないようなのです。最近それをつくづく思い知らされております。
あー、だから私の芝居はつまんないんだなーって。杓子定規の解釈で、ゴリゴリに固めた解釈しかできない。おまけに身体表現もうまくない。
そういうことを自覚する機会が増えてきて、演劇は続けたい、お芝居はし続けたいと思いながらも、自分の下手さ加減にうんざりしているところです。
うまくなりたいよなあ。ほんとに。