劇場で会いましょう | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

これは前々から疑問に思ってることなんだが。

 

よく「劇場で会いましょう」って歌手とか俳優とかが言うんだけど、いつも違和感を持ってしまう。

私にとって「会う」というのは、お互いに個体認識してて、その人に照準を合わせることを指している。だから「会う」のは常に一対一。

複数の人間がいる場所にいたとしても、顔を合わせて話をするのはやっぱり一対一になるわけで、そういう状態のことを「会う」と表現すると思っている。

だから、舞台の上から不特定多数に向けて言うのはなんか違うんじゃないかなあと思うわけだ。

それは「会う」っていうんじゃなくて、「見る」なんじゃないのかと。

客席から一方的に見てる感じ。

舞台の上からでもちゃんと客席のお客さんの顔を見ることができるという人もいるみたいだが、でもそれはやっぱり「見ている」だけなわけで。

客のほうだって、ファンであるというだけで、個人的にその人を知っているわけではないのが普通だから、「会いに行く」というのはちょっと無理があるのではなかろうか。

会場に足を運ぶことを「会いに行く」とあえて表現していることはわかるんだが、どうしても「別に会ってるわけじゃないよなあ」と思ってしまう。

 

私は舞台上から客席のお客さんの顔を見るのは苦手である。

むかーし、お客さんとばっちり目が合ってしまって、セリフが飛びかけたことがある。それがトラウマになってるのかもしれないんだが、客席でお客さんの顔を認識したとたんに現実に引き戻されてしまうような気がするのだ。

素の自分が出そうになるのかもしれない。そうなったらもう演技なんてできなくなってしまう。

だからずっと、焦点をぼかすようにしてきた。見ているようで見えてない感じ。

最近は、視線の先に透明な膜を張って、時空を遮断できるようになってきた。そうなると目を見てても目は合ってない状態になる。

相手役の目を見る時は、もう少し奥まで見るけど、あくまでも役の殻にとどまるようにしてる。殻を突き抜けて相手の内面まで入るような技術は私にはない。

 

基本的には私は人と会うのが苦手だ。嫌いじゃないんだけど、後の脳内会議がしんどい。

話をするのは好きなんだけどねえ。直接話すときは相手の目を見ることができない。

いつも挙動不審だろうなあと思うんだ。目をそらして喋ってるし。時々は相手の顔を見るようにはしてるんだけどねえ。自分が喋ってる時は特に相手の顔が見られない。逆に相手が喋ってるときはガン見したりするんだけど。

 

「劇場で会いましょう」じゃなくて、「劇場へ観に来てね」の方がいいなあ。

一方的な「見る→見られる」関係のほうが安心できる。

にしても、なんで「会いましょう」なんていう言い方をするんだろうね。