かぞくのじかん | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

若くして亡くなった義妹のお墓参りに行ってきた。

夫の両親、私、私の娘とその子供の5人。

血縁関係にあるのは夫の両親のみ。

私は子連れで再婚したので、私の娘とその子供は義妹とはまったく血縁関係がない。

世間ではお盆休みらしいが、夫の両親の実子はお休みではないのでお墓参りには同行できない。

姓が同じなのは夫の両親と私だけ。

「家族は同性であるべき」派からしたら、この一行は家族ではないということになるのだろうか。

 

Twitterで見かける「家族は同姓であるべき」派が想定する「家族」とは、「夫婦と、未成年の子」のみを指すようだ。だから必ず「子供の気持ちを考えろ」というのだろうし、すでに結婚して改姓してしまった「子」の存在は黙殺されてしまう。

いつも思うのだが、「家族は同姓であるべき」派は法律のことを知らないのではなかろうか。あるいはあえて無視しているのか。

現状で夫婦が同姓になっているのは、単に民法で「どちらかの姓を選ぶ」となっているからにすぎない。選ばないと法的に婚姻できないのだ。チェック欄は「夫の氏」か「妻の氏」しかない。そこにもう一つ選択肢を付け加えて、どちらも改姓しないまま法律婚が成立するように改正するというのが「選択制夫婦別姓制度」である。

そうやって法律で決めようというだけのことなのだから、「どちらも改姓しない」という選択肢が増えたからといって、戸籍が壊れるとか、家族が壊れるということにはならない。

その選択肢を付け加えること自体が戸籍の崩壊なのだ、という主張なのかもしれないが、だとしたら法改正するたびに戸籍が壊れてしまうことになってしまう。家長制度の廃止なんてまさに家族の概念の変更だと思うんだけど、そういうことは言わないんだなあ。

いまだに概念の中には「家制度」が存在してて、「結婚とは女性が元いた家族集団を抜けて、男性側の家に入れてもらうこと」だと思っている。だから「入籍」という言葉を使うのだろう。

入籍というのは、すでに存在している戸籍に入ることで、現在だと養子縁組くらいでしか使わない。そして、結婚=養子縁組ではないので、結婚してどちらかの姓を名乗ることにしたからといって、その名乗った姓の方の養子になるわけではないのだ。そんなこといったら、改姓した女性はみんな夫の親の養子になってしまうではないか。

まあ、「婿養子」という概念も残存してるので、男性側が改姓するとほぼもれなく「婿養子か」と言われてしまうけれども。

いくら法律上は「夫もしくは妻の姓を名乗る」ということになっていても、現状では9割の夫婦が夫側の姓を選択する。望んでそうする人もいれば、やむなくそうする人もいる。どうしても選べない人は結果的に「事実婚」と呼ばれる状態を選ぶ。

この「事実婚」という言葉も一人歩きしてるよなあと思う。事実婚って、要するに「事実上夫婦同様である」と認定するだけのことで、法的な効力はないのだ。

法律の話をしているのに、「いや、実際は夫婦みたいなもんですよね」というふわっとした認識の話で反論されても、議論の土台が違っている。

「どうしても別姓がいいなら事実婚を選べばいいじゃないか」と他人に言い放つ人がいる(あくまでもTwitter上での観測)のは、法的知識の浸透が追いついていないことの表れであって、大変残念なことだと思う。

別姓を選ぶ人なんてごくわずかだから、という理由で反対する人もいるが、法的根拠が与えられない理由が「少数だから」というのは法治国家の名折れではなかろうか。そんなこと言ったら、あらゆる事象における少数派は常に黙殺されることになってしまう。

 

そもそも「家族」の法的定義がないのだ。「家族」は概念である。

夫婦とか親子とか親族関係には規定があるが、「家族」には規定がない。

どういう形態をもって「家族」と呼ぶのかは人によるのだ。

今日お墓参りに行った5人は、「家族」だと私は思っている。血縁関係はないけど、人間関係はある。つまるところ、「家族」とは「人間関係」なのだ。だから時々構成が変化する。

親子関係だって、血縁が絶対ではない。基本的には血縁関係で発生するけれども、血縁関係でなくたって親子にはなれる。それこそ、動物だって血縁関係がなかったり、時には種族を越えて親子のつながりを作ったりするではないか。いわんや人間においてをや。概念を利用できる人間なら、「親子」の概念を拡張することだってできるはずなのだ。

 

法律の話と、概念やら慣習やら情緒の話をごちゃまぜにすると、話が混乱する。

法律の話をするときは、法律のことだけで話をしてもらいたいものだと思う。