朗読とはなんぞや | 10月の蝉

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いまだに「朗読」とはなんなのかがよくわからない。
読み聞かせとの違いは、絵本のあるなしなのか?
何をどう読んだら「朗読」と呼ばれるジャンルになるのか、いまだにわからない。
感情を入れずに読みなさいという教えがあったり、新聞の紹介記事で「感情豊かに、抑揚をつけて読んでいて素晴らしい」みたいな書き方をされたり。
学校の国語の授業で教科書を読む「音読」とはたぶん違うだろうなあとは思う。
あれは単に「書かれた文字を声に出しているだけ」の状態だから。なんなら、なんか気恥ずかしくてわざとぶっきらぼうに棒読みする場合だってある。
あー、あれはなんだろうね、ちょっと気を入れて読むと冷やかすヤツ。
他人が感情を表現しているのが恥ずかしいんだろうか。共感性羞恥ってやつか?
必ずいる。書かれたことの内容を理解して解釈して、ふさわしいと思う言い方で読むと、からかってくるやつ。(ちょっとずれるけど、ネイティブな発音で英語の教科書を読むとからかうやつも似てるね)
私は日本以外の国を知らないのでこれが国民性なのかどうかは知らないけど、「豊かな表現力」とか「自然な発音」をやたら侮辱してくる傾向がとても強いと思うんだ。あれは同調圧力とも関係あるのかもしれない。一人だけ突出することを許さない。一緒に高みに登ればいいと思うんだが、絶対下に引きずり下ろそうとする。自分も低いところにいるという無自覚の自覚はあるんだろうね。
そこにいる集団とは違うものがあると、とにかく突っつく。いじめる。日本ならではの傾向なのか、人類の普遍的な傾向なのかはわからんけど、とりあえず日本国内では頻繁に見かける。
嫌な習性だとは思うけど、朗読から話が逸れた。
 
そう、「音読」とは違うはずなのだ、「朗読」は。
でもどこがどう違うのか、どうすればいいのかがわからない。
今心がけているのは、まずその世界を確立すること。
自分が読もうとしている作品は、どういう世界なのか、何が語られているのか、何を語りたいのか。それを把握して的確に表現する。言葉の意味、てにをは、語尾。あらゆるところに世界を構築するパーツがある。抑揚、間、強弱。いろんな要素を組み合わせて作品世界を表出する。
私の心構えとしてはそうなんだけど、果たしてそれが聴いて面白いものなのかどうかがわからない。
他の人の朗読を聴いてもいいなと思えない。いいものに出会えてないだけなのかもしれないんだけど。発声や発音が気になったり、息継ぎが耳障りだったり、のっぺりしていて中身が入ってこなかったり。
 
朗読を描いた小説がある。
「遙かに届くきみの聲」(大橋崇行)
2020年に発行された、双葉文庫ルーキー大賞第1回受賞作である。
高校の朗読部を舞台にした話なのだが、この小説の中での朗読は非常に豊かな表現方法として描かれている。その朗読を聴くだけで小説の世界が構築され、想像力が刺激されると。
これを読むと、朗読っていいなあと思うのだが、いざ現実に戻ってくるとそうでもないことが多い。私の周辺だけなのかもしれないんだけど。
 
小学校なら絵本の読み聞かせでもいいんだが、中学となるとさすがに絵本はどうだろうと思うようになる。あえて絵本、という選択もないわけじゃないけど、どうしたって内容は単純化されてしまうし。
だから、名作とか古典とか、あるいは現代物の面白そうなのを読みたいなと思うのだ。
それは「朗読」のジャンルなのかなあ。というか、何をどうすれば「朗読」と言えるのか。
ごちゃごちゃ言わずに読めばいいんだけど、たまに引っかかる。
 
ブログネタの「朗読してほしい人物」って、読み手になって欲しい人っていう意味なのかしらね。ちょっと思いつきませんけど。うまい人に読んでほしいですわ。