蓄積が関係を作るのだ | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

昔、ちょっとメンタルを病んだ時があって病院へ通ったことがある。

その時の診察で、「お父さん、お母さんはどういう人?」と質問された。

そんなことそれまで考えたこともなかったのでとても意表を突かれたのだが、しばし考えて浮んできたのがこの答えだった。

「お母さんは怖い人。お父さんはいない人」

どういう人?と聞かれて一言で表そうとしたらこうなった。

そして自分で言葉にしてみて初めて腑に落ちた。

そうだ、お父さんはずっと「いない人」だったと。

 

もちろん実在はしてる(今も健在)。家の中でもちゃんとお父さんとして存在はしてた。

でも、関わりは薄かった。

朝は子どもたちが起きてくる前に出勤していたし、夜は子どもたちが寝てから帰ってきてた。

日曜日も(当時は土曜日は休みじゃなかった)どこかへ出かけていて、普段の生活で父親の存在を実感する機会は少なかった。かろうじて母がその存在をことあるごとにアピールしていたから忘れなかったというだけ。

私の中での父親は、「何かお金がかかることをするときに許可をもらう人」くらいの存在だった。まあ、経済的には家庭を保持していたってことだね。

それ以外の関わりは、ずーっと記憶をたどっても二つくらいしか思い浮かばない。

どっちもあんまり良い記憶じゃない。

一つはたぶん小学3年生くらいの時。当時、認識がまだお子様だったので、風呂から出るときに裸のままで出てくることがよくあった。ある夜、父が私を見て、胸が出てきたな、みたいなことを言った。ものすごく恥ずかしかった。体格のいい子供だったので、そういう兆候が出ていたのだ。それ以来、必ず脱衣所でパジャマを着て出てくるようにした。そのために注意してくれたのだと思っている。まあ、見たままを口にしただけなのかもしれないが、強烈な注意喚起だとは思う。

もう一つは中学生くらいの時。推理小説にはまった私は、父の本棚を見て自分が持っていない本を見つけた。何の気なしに「いいなあ」と言ったら、ひどく自慢げに「いいだろう」と言った。それだけ。読むか?とか貸そうか?とかそういうのはなかったし、むしろそんな気はさらさらないよというようなニュアンスを感じ取った。

私の中にある父の記憶はこの二つしかない。日常的なやりとりはもしかしたらもうちょっとあったのかもしれないが、基本的に父は家庭や家族に関心がないようだった。とにかく関わってこない。ずっと自分の世界にいる人だった。

だから私の中ではいつしか「いない人」になっていったのだと思う。

 

そのことについてはもう何も思っていない。そういう人だったんだなあ、としか思わない。

残念だなと思うことはある。

人の話やフィクションなどで、父親との濃厚な関わりや愛情についての話を聞くときに、どこまでいっても共感もできないし、理解もできないからだ。

誰かについて何かしらの感情を持つには、それなりに蓄積されたものが必要だ。

共通の思い出だったり、気持ちのやりとりだったり。

例えば修学旅行で、確かに一緒に旅行に行ったクラスメイトなんだけど、あまりにもふだんから関わりがなくて、旅行中もほぼ関わりがなく、集合写真を見て初めて「ああ、いたね、確かに」と思うような人。そういう関係性の人って必ずいると思うんだけど、そういう人のポジションに近い気がする。

大学に行く費用や一人暮らしの費用は出してくれたから(実務は母が担当だったが)、そのことについては感謝してる。世間的な常識として、十分感謝してる。でもそこに気持ちはないのだ。

 

今朝の産経新聞の産経抄で、父親の影が薄くなってきていることを嘆く文章が書かれていた。父親の地位の低下が著しいとも書かれていた。母親やその影響下にある(と思われている)子どもたちが悪いというニュアンスで。

お互い様じゃないの?と思う。先に母子連合が父親を軽んじているわけじゃなく、軽んじられても仕方のない関わり方しかしてこなかった結果でもあるんじゃなかろうか。

最近の若いお父さんたちはかなり変わってきてるようには見えるけど。ちゃんと子育てに関わるとする人が増えてきてると思う。

蓄積なんだよ、やっぱり。積み重なったものがあれば、そこに気持ちの交流は生まれる。まともに関わってくれば、愛情だって愛着だって生まれる。

産経抄は続いて、選択制夫婦別姓制度についての異議を書いてる。経団連が提言を出したことを受けて「拙速に進めては禍根を残す」と書いているが、30年も検討され続けているのに拙速はないだろう。国民の同意が得られないことを理由に挙げているけど、同意を得ぬまま採択された法律など山ほどあろうに。(近いところでは共同親権とか)

同一姓であることと、家族の絆にはなんの関係もない。私は父母と同一姓であったが、それを理由に家族だと思ったことはないし、なんなら自分の結婚時にその姓を捨てている。

なぜか夫婦同姓にこだわる人たちは、結婚して改姓した子について言及しないんだが、あれはなんでだろうね。改姓した娘はすでに家族ではないと言うのだろうか。昔の家父長制度の下でならそうだったかもしれないけども。

夫婦が別姓になったときに子供の姓はどうするのだ、と書いているが、なんで子供の出生届を出すときに子供の姓を決めると思っているんだろうね。結婚して戸籍を作成したときに姓は決まっているのに。

まあ、産経新聞はそういう主義の新聞だから仕方ないんだけども。わかってて読んでるとはいえ、トホホな気持ちになることには変わりはない。

 

子供が生まれたら自動的に親になるわけじゃない。いや、生物としては「親」になるんだけど、人間としての「親」は、瞬時に変身できるわけじゃないのだ。なぜか母親は産んだ瞬間に変身できると信じられているが、そんなわけない。

毎日の関わりの蓄積の上に、親としての自覚や親子関係が作られていくのだ。

それをやらないから「いない人」になってしまうんだと思う。

 

 

てなことを、父の日に思ったわけですわ。

息子は今年も夫に「父の日プレゼント」を贈ってきた。先月の母の日には私にも贈ってくれた。

彼がどう思ってこういうことをしてくれるのかはわからないけど、少なくとも過去の蓄積があるからこういうことをしようと思ってくれるのだと信じている。

ちなみに私はなにもしない。今までも、これからも。