「死んだ山田と教室」読了 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

第65回のメフィスト賞受賞作品。出版前から話題になってたらしい。

たまたま本屋へ行ったら目につくところに平積みされており、そういえば話題になってたなと軽い気持ちで手に取った。

「結果、それが大正解」(今稽古してる一人芝居の中のセリフ)

 

最近のメフィスト賞は当たりが多い。私にとっての当たり。

砥上裕將さんもそうだし、五十嵐律人さんや、潮谷験さんもそう。

ナンダコレハという驚きとビビッドな世界観、新鮮な感動を与えてくれる作品に出会える。

この「死んだ山田と教室」もそうだった。

「私立進学校の2年E組の人気者、山田が突然交通事故で死んだ」

この設定から簡単に想起できる物語としては、山田を巡る高校生たちの繊細な心情を描くものだったり、あるいは死亡の原因をめぐるミステリーなんじゃないかと思う。

でもそんな私の想像はあっさり裏切られた。

もちろんクラスメイトたちは山田の突然の死に動揺しているんだが、そしてそこになにかしらの心理の濃淡はありそうなのだが、それらをぶっ飛ばしてしまうのが「山田の声が教室の校内放送用のスピーカーから聞こえてくる」という状況。

なんだそれ?! 面白すぎる。

しかも山田は自分の状況が把握できておらず、どうやら教室にいるクラスメイトの声が聞こえるだけのようなのだ。

「声だけ」という設定の面白さ。しかも、2Eの教室内限定という制約。

どうやら教室内にいれば声は聞こえてしまうらしいので、2Eの生徒たちは合い言葉を決める。

この合い言葉がもういかにも男子高校生っていう感じで笑ってしまうんだが、次第にこの合い言葉にも苦い哀愁がつきまとうようになっていく作りがすごい。

序盤はとにかく、山田が喋るということに関してのエピソードが語られる。男子高校生ならでは(なのか?)のものすごくくだらなく面白いやりとりが続く。このくだりはほんとに面白かった。

この先どうなっていくんだろうと思っていると変化が現れる。だんだん皮が一枚めくれてくる感じ。

物語を読んでいて一番面白いのはこの段階だといつも思う。

最初にバーンと現れた事象が落ち着いてきて、ちょっとずつ本質が現れてくる展開。

新事実がでてきたり、関係性に変化が起きたり。

「死んだ山田と教室」でもそうだったのだが、なんとなく違和感がずっとあって、展開が腑に落ちないのだ。まだ半分以上ページが残っているあたりで、大団円になってもおかしくない展開になっている。いやこれで終わったらおかしいだろと思いながら読み進めると、意表を突いた展開になる。そうくるか、と。

で、そうきたら当然こうなるよなあという展開が続く。このあたりが本当に切ない。

そうなんだよそうなんだよ、仕方ないんだけど辛いよなあと思いながら読み進めていった終盤。

思いがけないカタルシス(というにはあまりにも痛かったが)が待っていた。

こんなふうに終わるのかよ、と思ったら、あまりの痛さに泣けてきた。号泣とは違う、痛みがもたらず苦い涙。

読み終わってすぐは、やはり主人公の山田のことばかり考えていたのだが、少し経ってちょっと違う感慨も湧いてきた。あれ、和久津がいちばんつらいんじゃないの、と。

和久津というのは山田の中学からの友達なんだが、中盤以降かなりの存在感を示してくるのだ。

山田もつらいけど、和久津もしんどい人生だよなあと。いや、本人はそう思ってないんだろうけど、傍から見てるとけっこう切ない。

最終ページの破壊力はすさまじかった。胸に杭を打ち込まれるような感覚があって、最後の一文でとどめを刺された。本を閉じてしばし呆然としてしまった。

 

SNSを検索したら、YouTubeで「山田ラジオ」という番組を開設したという情報を見つけた。

早速見てみると、本のカバーモデルをやった菅生新樹によるラジオドラマだった。

ラジオドラマなので映像はなし。脚本は小説の作者金子玲介さんが書いたらしい。

セリフのみが字幕で浮かび上がる。

作中に出てくるラジオとはちょっと違うんだけど、なんだか本当に山田がパーソナリティをやってる深夜ラジオ番組みたいだった。

これがまたよかった。菅生新樹の声が、イメージしていた山田にぴったりだった。

学校でいじめにあっていて死にたいという悩みは、昨今ありふれたものになってしまった。

一人一人にとっては重大な出来事で、ありふれてるからといって悩みが消えるものではないんだけど、そういうことで死にたいと思う人がいるという状況は珍しいことではなくなった。だからそれに対する声かけもある程度のパターンが出来ているような気がする。

通り一遍の「死ぬな」「残された人の気持ちを考えろ」から、もう少し踏み込んで「我慢して生き延びたらきっといいことがあるよ」という励まし、「逃げてもいいんだよ」というアドバイスなど、「死にたい人にかける言葉集」はけっこう充実してきてるんじゃないかと思う。

でも充実してしまったためにかえって、そういう言葉そのものが形骸化してしまっているとも言える。んなことはわかってるんだよでも今まさにこの瞬間も辛いんだよ、という「個人の気持ち」に対応することは、実はできないのだと思う。

そういう状況を踏まえた上での山田の言葉は、硬すぎず柔らかすぎず、ちょうどいい具合にすっぽりと包み込んでくれるような、そのくせ決して甘やかしたりごまかしたりしない精一杯の対応だった。まるで私に言ってくれているようだった。

 

私の中にいる14歳の私が泣いていたんだと思う。

もうかなり長いこと生きてきた(というか時間を過ごしてきた)んだけど、いつまで経っても自分が大人になれた気がしない。いつまで経ってもだめだめな子どものままのような気がしてならない。一応対外的にはそれなりの態度を取れるくらいには世間ずれしたけれども、心情的にはいつも中学生や高校生の気持ち、立ち位置、目線になってしまう。(だからそういう年齢対象のものに惹かれてしまうのかもしれない)

そんな私に「死んだ山田と教室」はドストライクの作品だった。めっちゃ好きや。

 

たまにこういう作品に出くわすから読書はやめられない。

いろんな新人賞があるけど、最近はメフィスト賞受賞作品が買いだな。