恐怖について | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

Twitterで「無痛分娩をおねだり」というすさまじいワードが話題になっていた。

いろいろ意味わかんなすぎて、虚無の顔になったけど。

 

「死ぬかもしれない」と本気で思ったのは、一人目の子どもを出産したときだった。

正確には陣痛の最中。

2分間隔のままお産が止まってしまっていて、絶え間ない痛みに吐き気がした。

夕食に食べた八宝菜のタケノコ(だったと思う)が未消化のまま胃の中に残っていて、陣痛の合間に嘔吐したら、いろんなものが喉に引っかかった。引っかかってむせて咳き込んだら息が出来なくなった。というか、咳き込むことすらできなかった。喉がふさがってしまったからだ。

下からは絶え間なく痛みが押し寄せてくるのに、呼吸することができなくて私はパニックに陥った。

準備室(分娩室へ行く前の待機場所みたいな部屋)には私しかいなかった。

破裂しそうな体と吸うことも吐くこともできない喉。

死ぬのかもしれない、とその時思った。

運良く、その直後に看護師さんが来て背中を叩いてくれたので、詰まっていた物を吐き出すことができた。窒息の恐怖は去った。出産の恐怖は残ったけど。

 

あれから30年以上過ぎたけど、今でもあの恐怖は鮮明に思い出せる。

絶対に出産することのない性別の人たちはいとも気軽に出産のあれこれについて語るけど、出産ってものすごく怖いよ。

女性の中にも怖くないって人もいるし、時間が経ったら怖さを忘れられる人もいるけど、でも、「出産」ということ自体は死の危険が常につきまとう、わりと恐ろしい行為であることは確かだ。

なんでヒトはこんな危険なやり方を選んだんだろうとご先祖を恨みたくなる。

妊娠出産という観点から見たときには、心底男に生まれたかったと思う。あんな恐ろしい思いをしなくても済むんだからさ。

 

「死」への恐怖には2種類あって、それは死んだらどうなるのかがわからないという恐怖と、死ぬ瞬間の苦痛への恐怖。

自分が死んだ後のことを考えると怖くなる、っていうのは、実は私にはよくわからない。

私が死んだって世界は何も変わらないし、通常営業が続くだけだと思う。

私自身は死んでしまえば消滅するから、もうあれこれ考えることもなくなる。

死後の世界も、残存意識もフィクションだと思っているし。

ただ、生から死へ移行する瞬間は恐ろしいと思う。あの、呼吸できなくなった瞬間の、とてつもない恐怖と苦しさ。

窒息で死ぬのはいやだなあと思う。「息ができなくて苦しい」と感じている瞬間が怖い。

「水」が怖いのはそのせいだと思っている。(あと宇宙も怖いけど、私が宇宙へ行く可能性はゼロだ)

常日頃、漠然と「生きているのがしんどいなあ。消えてしまいたいなあ」と思っていても、では具体的にどのような手段を用いて消えたいかと考え出すと、案外どの手段も苦しそうだし痛そうなので、結局生き続けることを選ぶことになる。

まこと、ポーの一族のように、「ざっと灰になって消える」ことができたらどんなにいいだろうかと、わりと真剣に思ったりする。

電灯のスイッチを押すようにパチンと消える、とか、マッチの火を吹き消すようにふっと消えるとか、どうして人間はそんなふうに消えることができないんだろうか、とらちもないことを考えたりする。

 

あの陣痛の最中の恐怖は、「息ができないまま死んでしまう」という恐怖と、「出産の進行によってさらに苦痛が増すこと」への恐怖だったと思う。

まー、なんといいますか、背骨が腰のあたりからメリメリと割れていくような痛みって、なかなか経験しないと思いますね。下半身が爆発するんじゃないかという恐怖もあったし。

私にとっては、出産=死 のイメージしかないな。よく生きてたもんだ。

 

最高に愚劣なワードによって、過去の恐怖がまざまざとよみがえってしまったよ。