「演劇」について考える | 10月の蝉

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まあ、いつも考えてるわけですけどね。

考えれば考えるほどわからなくなりますよ、演劇ってなんやねん、と。

台本があって、舞台があって、役者がいて。

お芝居やってたら演劇なのか。

いやそうじゃない、「演劇とは作品を作ることだ」と言った人もいます。

役者が演技してるだけじゃだめで、総合して作品を作り上げることを演劇というのだと。

まあこれもわからんわけじゃないけどね。それを言い出したらちょっとややこしいことになるし。

 

6月末にモノローグ穴の会の公演がある。場所と日が決まりました。まだ上演時間は調整中だけど、おそらく今回も3日間5回公演という形になると思います。さて、何回出ようかな。

公演と発表会の中間くらいの位置づけでやっているこの公演。そもそもはワークショップの成果発表会としてスタートした。気づけば5回目。最近少しずつメンバーが増えてきて喜ばしい。

渋谷悠さんのモノローグ集「穴」と「ハザマ」をテキストにして、メンバーがそれぞれ好きな作品を選ぶ。演出も自分で考えるのだが、最初はなかなかそこまで頭が回らない。なぜなら「とにかく覚えなくちゃ」という意識が先立つからである。

数ページにわたるモノローグは、時間にしてだいたい10分くらい。それを自分一人で全部しゃべらなくちゃならない、とまず最初に思う。覚えなくちゃ、覚えなくちゃとそればかりに気を取られがちである。

最初はそうなんだよねえ。台本読んだらまず「セリフを覚えなくちゃ」と思う。

本番直前まで「セリフ覚えなくちゃ」って言ってる人もいる(笑)

 

しばらくやってると、だんだんその先を考えるようになる。

覚えたセリフをどういうふうに言うか、である。

これも、最初のころ(初心者のころ)は、「抑揚ってどうつけたらいいですか」とか「どういう声でやったらいいですか」「声色は使ってもいいんですか」というレベルにいる。

「淡々と読む」のと「棒読み」は実は全然違うものなんだけど、わりとごっちゃにされやすい。

本人は淡々と読んでるつもりなんだろうが、実際は内容が伝わってこない棒読み、ということはよくある。

実は、「どういうふうに言うか」を考える前に、なぜそのセリフが発せられているのかを考えなくてはいけないのだ。それが読解であり、分析である。これは単語だけじゃなく、助詞や語尾に至るまで「なぜそれがチョイスされているのか」を考えることが必要だと思っている。

畢竟、人の気持ちはその時選んだ単語、助詞、語尾、語順ににじみ出てしまうものだからだ。

日常の、インプロビゼーションのようなやりとりですらそうなのだから、計算して書かれたセリフがそこを考慮してないわけがない。

これをどう掘っていくか、どう解釈するかで芝居が変わるのである。演じる人によって印象が変わるのは、解釈が違うからなのだ。

 

今度はこれにしようかな、と思う作品がほぼ決まって、さてこれから読解の時間である。

極端にト書きが少ない台本なので、もうありとあらゆることを考えなくてはならない。

そこが楽しいんだけども。

セリフが入ってきて、ちょっとずつ血肉になっていく感覚はぞくぞくするね。