春はほんとに寂しくなるねえ。
昨日だったか、日が落ちた西の空の端に細い月がひっかかっていた。
この間新月だったので、ようやく見え始めた部分が受け皿のようになっていて、地球照も見えた。たぶんあのあと山の向こうに沈んでしまったと思う。
まだ浅い夜の時間に見かけた、細い細い月は、薄ら寒い初春の空気の中で揺れているように見えた。
2月3月というのは、4月制の日本においては「終わりの月」である。
その年度が終わる。いろんなことが片付いて、「終わりだね」という感じになる。
消化試合のような日々になっていく。
まだ2月だから、受験だの3学期だのが完全に終わってはいないんだけど、気分としては明らかに終結に向かっている。
実際に花粉も飛んでいるんだけど、2月3月はいつもなにかしらほこりっぽい感じがする。
空気とか、雰囲気とかが、「取り残されて、放置されて、もう見向きもされなくなっていく」ナニカのような感じ。そこに「ほこりっぽさ」を感じる。
そしてその「ほこりっぽさ」は同時に寂しさも連れてくる。
単純に「終わっていくこと」への寂しさ。慣れ親しんだ物事から離れなくてはいけないことへの寂しさ。
新しいことへの期待よりもまだ、今までのことが終わっていくことへの寂しさの方が強い。
気温だって、まだまだ寒い日は続くのだが、どうかするとぽかっと暖かくなってみたり(今年は特にその傾向が強い気がする)、そうかと思うと、こちらの気の緩みをあざ笑うかのように寒くなってみたり。とにかく安定しない。その寒暖差に振り回されて、気持ちまで乱高下する。
毎年思うけど、春先は嫌いだ。わけもなく寂しくなる。ひとりぼっちだ、なんて思ってみたりする。ことさらそんなふうに思わなくてもいつも一人なんだがね。なぜか春先はそれを強く感じてしまう。
昨夜は久しぶりに、欽ちゃんの仮装大賞を観た。うっかりして途中からになってしまったんだけど、うまい具合に優勝した組の演技は観ることができた。
あれ、4年ぶりなんだね。そういえば久しく放送されていなかったわ。
再開されて喜んでいる人がたくさんいた。なんだか観ているとこっちまで涙ぐんでしまう。
掛け値無しの善意や、熱意や、努力がそこにあった。
ああいうのねえ、思いついて作って練習して出場するって、すごいことだと思うんだ。そりゃあ泣くよね。昨夜の放送でも力作がたくさんあった。あの収録の日までにどれくらいの練習を積んだんだろうと想像すると、それだけで胸がいっぱいになる。
ここ10年ほど、いろんなことをやってきた。とにかくやってみようの精神で、あちこち首を突っ込み、手を挙げて、活動の場を広げてきた。
で、ふと気づいたら曲がり角に立っていたのだ。曲がり角というか、階段の踊り場みたいなところ。今まで通りにやっていこうとしても無理じゃん?っていうのが明確になってきている。
それはつまり、変化の時、ということなのだ。そしてそれに気づいたということは、私は少し疲れてきているということなのかもしれない。
演劇も読み聞かせも、どちらも無償、持ち出しの活動である。でも演劇に関してはそれが苦にならない。もとより演劇で対価を得られるとは思っていないせいもあるけど、それだけじゃなくて、ただ楽しい、どうしてもやりたい、と思う気持ちのほうが強いからなのだと思う。
その一方で、読み聞かせ(およびわらべうた遊び)の活動に関しては、年々「割に合わない」という感覚が強くなる。楽しいと思えなくなってきていることに気づいてしまった。
だから来年度からは徐々に活動の範囲を狭めていこうと思っているわけだけれども。
ほこりっぽい風に吹かれて、心は千々に乱れる。
ああ、春は嫌いだ。