それは「心の傷」ってやつなのではないのか | 10月の蝉

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今朝の「ボクらの時代」に中村七之助さんが出演されてました。

大竹しのぶさん、渡辺えりさんとの対談。前半の話題は七之助さんが小さかったころのことがメインとなっていました。

 

私は中村屋さんのファミリーヒストリーを追った番組が好きで、放送されるとたいてい観るようにしています。歌舞伎そのものはたぶん、この先も観劇することはないと思うんですが、ああいった番組で垣間見る歌舞伎(の舞台の様子)は非常に興味深い。稽古風景が見られるところも気に入ってします。

で、そういうのを観ていてけっこうな割合で思うのは、「稽古中のダメ出しがきつすぎないか?」ということ。

お芝居のお稽古してて、できてないところだとか、あまりよろしくないところを指摘するのは、まあ当たり前のことではあるんですが、なぜそんな言い方をしなくちゃいけないんだろう、と思うことが多々あるんですね。そんなふうに怒らなくてもいいじゃないの、と思うわけです。

私自身が人から怒られるのが大変恐ろしいので、よけいそう思うのかもしれません。

 

「ボクらの時代」では、いろんな俳優さんが出演されますが、現在中高年となった方が昔話をするとき、もしくは若くてもキャリアの長い方が昔話をするとき、かなりの割合で「めちゃくちゃ怒られましたよ」というエピソードが出てきます。

雰囲気としては、「過去にやっちゃったやらかしを、今は懐かしく思いだして語る」という感じにはなってるんですが、その怒られた内容を聞くとそこそこ理不尽な話であることもしばしばです。

あれ、にこやかに笑いながら話してて、いかにも「懐かしい、いい思い出」ふうに語ってますけどね。その当時はそうとう怖い思いをしたり、傷ついたりしたんだろうなあと思うんですよ。

だって、何十年も経ってるのに、ものすごくクリアにその話をするじゃないですか。

あちこちでエピソードトークのネタにしているのかもしれませんが(繰り返し語るとパターンができるし、記憶も明確になるから)、それにしたって、長い時を経てもなお「こういうことがあった」と語ることができてしまうというのは、それはもしかして「心の傷」ってやつになってるからじゃないのか、と思うんですね。

 

テレビに出てそういう話ができるという時点である程度成功しているわけで、だから「いい話」にするしかないんだろうなとは思うのですが、そういう話を聞くたびに「ほんとはいい話にしてはいかんと思うよ」と心の中でつぶやいてしまいます。

 

中村屋さんの番組を観ているときでもそう。

芸に厳しいとか、厳しい指導、とか言いますが、どうしてあえてそういう手段をとるんだろうなあと思うんですよ。怒鳴るとか、切り捨てるような物言いをする、とか。

ハラスメントという言葉は使いたくないんですが、それでも指導方法としてはいかがなものかなあと、その一点だけは毎回疑問に思います。

 

みんなけっこう根に持ってんじゃないの、と思っちゃうわけですね。

 

七之助さんは、「あなたもそういうふう(厳しくいう、怒鳴るなど)に指導するの?」と聞かれて、「いえいえ、私はそういうことはできません。兄はやってますけどね」と答えていました。

想像できちゃっておかしかったですけどね。熱血、という感じですから。

 

厳しい指導、といって「できない役者を怒鳴りつける」が思い浮かびがちですけど、私はそれは「恐怖による恫喝」だと思っています。

ほんとに厳しい指導というのは、言われた方が簡単に逃げられないような指摘とか、適当にごまかすことが許されない関係、なんじゃないかと思うのです。

使ってる言葉は柔らかく優しいのだけれども、言われたほうが気づいていなかったことや、見逃していたこと、ごまかそうとしていたことを鋭く指摘し、改善を要求する。それが「厳しい指導」だと思うんですね。

「なんでできないんだ! できるまでやれ!」とか「できないならやめちまえ!」というのは、一見厳しいようでいて実は無責任で感情的な発言に過ぎないと思うのです。

できるまで、なぜできないか、どうしたらできるかをきっちり詰めていく。簡単に逃げることを許さない。それこそが厳しい指導だと思います。

 

こないだの柄本明さんの番組で唯一、いやだなあと思ったところがありました。

柄本さんも、ふわふわ、ゆるゆる問い詰めてくるんですけど、ふいに大きな声で「だからだめなんだ!」と怒鳴ることがあるんですね。で、その直後にまたニヤニヤ笑っている。

ああいう人はほんとに怖いです。笑っていても安心できないですもんね。

うかつに気を許すなよというメッセージなのかもしれない、とも思いました。

 

芝居の稽古ってほんと変な行為だと、最近つくづく思います。

台本を読んでセリフを覚えて、その役を表現する。その物語を表現する。他の人たちとの関係性を表現する。そういう行為の中で、「その表現は違う」とか「その言い方は違う」という指摘が生まれてくる。演出家が「もっとこうしてくれ」と要求することもあります。あれはいったいなんなのでしょうね。自分でもよくわかりません。ただ、求める表現があることは確かで、それをなんとか伝えていかなくてはならない。

そういうときに「なんでできないんだ!」と怒鳴るのは、最悪手だと思うんですよねえ。

昔の人は言語化が上手じゃなかったから、ただ怒鳴るしかなかったのかしら。

なんだかわかんないけど違うんだよォ、オレが思ってることをちゃんと察して表現しろよ、ってな感じだったんですかね。

芝居やる人たちはずっとそういうことを続けてきたのかもしれません。

だから笑いのオブラートに包まれた「過去の傷」話が、何度も何度も出てくるのかもしれません。