「書いてないことを読む」問題 | 10月の蝉

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Twitterではしばしば、「書かれていないことを読み取って反論する」という行為が見られる。

「AはBである」という文章を「だからCはDなのだ」と読み取ってそれに反駁する。

これが始まると無限に論点がずれていき、虚しいやりとりが続いていくわけである。

国語の授業で「行間を読む」だとか、「背景を読み取る」なんてことをやってきたもんだからつい、書かれた文章には、そこに言語化されていない何かがあるものだと思ってしまいがち。

 

確かに文学作品を読む場合は、書かれた文章の表面だけを読んでいたら見逃してしまう情感もあるだろう。作者の意図も見過ごしてしまう可能性もある。でもそれはあくまでも、「書かれた文章」から推測できる範囲にとどめるべきものである。

そしてこれは「読解」という行為である。解釈である。どういう意図があってこの文章があるのかを読み解くということだ。

 

「文章を読む」という行為には、「書いてある文字をそのまま読む」という段階と、「書かれている内容を読み解く」という段階がある。

問題は前者だ。

台本の読み合わせをすると、時々、「書いてないこと」を読む人が出てくる。

これは文字通り「書いてないこと」を発語するという意味だ。

ある単語を全く違う単語として発語したり、語尾が変わってしまったり、ひどいときには「てにをは」が違っていたりする。

私は書いてある文字はそのまま読むタイプだったので、そうじゃない人に出会った時には衝撃だったし、不思議に思った。

例えば、「~してたからね」と書いてあるのに、「~したから」と読んだり。

「してた=していた」と「した」では意味が違うのだが、読んでいる本人は自覚していなかったりする。

気になってしまうのでいちいち指摘するのだが、あまりにもしばしば読み違えているとそのうちに指摘する方が神経質すぎるのかなと思うようになる。

しかし、少なくとも芝居は台本ありきなので、台本に書かれた言葉、文字はまずはその通りに読まなくては始まらないと思うのだ。崩すにしても、変更するにしても、まずは書かれたとおりに発語するところから始めないといけないと思う。

ところが、演出をする人によっては、「自分で言いやすいように変えてもらって構わない」と言ったりする。脚本はたたき台、設計図に過ぎないのだから、どんどん変えていっていいと言う。

推敲せずに書いた脚本なのかなあと思ってしまう。

 

言葉は意図や気持ちを伝えるためにあるので、虚構の世界を作り上げる上では相当綿密に計算して書いているはずだ。それなのに、発語する人の都合に合わせて変えてもいいとするなら、最初っからその人の言葉を使えばいいことになってしまう。でもそれって、その役の言葉じゃなくて、演じている役者個人の言葉ってことにならないか?

フィクションにおける登場人物の性格や考え方は、選ぶ語彙、語尾、語順などに表れる。だとしたら、演者個人の日常語に変えてしまったら、もはやその役ではなくなってしまうと私は思う。

 

議論の後に変更するのはいい。

そうじゃなくて、単に読み取れてないだけ、読み違えているだけの「読めてない」状態は、少なくとも芝居を作っていこうとする段階では改善するべきだと思う。自分が演出するときは、そのへんかなりうるさく言う。「セリフを言う」ということに自覚的になってほしいからだ。

他のところに出演する場合は、そのへんはもう諦めている。私が演出するわけじゃないし、と。

実際にお客さんの前で芝居するときは別に台本があるわけじゃないし、お客さんが台本と首っ引きでチェックしてるわけじゃないので、最終的には見えなくなってしまう問題ではあるのだが、稽古場で芝居を作っていく段階においては、この問題はうやむやにしたくないなあと思っている。でもまあ、めんどくさいことではあるので、「まあいいじゃん」と言われたら引っ込むけどね。「まあいいじゃん」というレベルでやるんだな、と思うだけのことである。

 

「書いてある文字をそのまま読む」という行為は、案外難しいことなのかもしれない。

とすると、台本の読み合わせってものすごく重要な稽古なんじゃないかしらん。そういう初期の段階で問題を発見して解決しておかないと、後々大変なことになるのだから。