大学生事情今昔 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう


昨日はこちらを観劇。
撮影OKとのことだったので、舞台美術を撮影。

きっちり作り込まれた素晴らしい舞台セット。(ちなみにこの写真、私のTwitter史上最多のいいねをもらった)
手前の飛び出してるところは、畳で四畳半。左右の階段は段のところに四畳半の形が描かれている。
真ん中の階の左右にある凸の半分は、手前の部屋にある本棚と同じ形で同じ配置である。

こんな感じで、ちゃんと本棚。

赤い欄干のある最上階、真ん中の2つ、そして手前の部屋。この4か所を自在に使って、時間や場所を表現していた。

原作は、森見登美彦さんの「四畳半神話大系」
未読なのでこの機会に読もうと思っているが、そもそもの言葉遣いがわりと古めかしい。あえて、なのか、時代設定なのかはわからないのだが、かつての(頭の良い一部の)大学生はあんなふうにしゃべっていたよなあと思う。
それを令和の大学生が発語するのはかなりの苦労があったと思う。少なくとも息子は苦労していた。今回彼は「小津」という、主人公と腐れ縁にある男の役を演じていて、主人公に次いでたくさんしゃべるのだ。年末に会った時はぼやいていたが、さすがにちゃんと間に合わせていたし、役の色付けもできていて、すごいなと思った。

そういう個人的な事情はさておき。
原作の「四畳半神話大系」はおそらく京都大学あたりの学生の話だと思う。難しいことと、ものすごく馬鹿なことを同時に考えていて、その馬鹿らしさにこそ価値があると信じていられるじの学生たち。かつては大学生ってそういう存在だったように思う。
大学時代がモラトリアム期間と呼ばれていた時代があったのだ。
そこでは学生は何者でもなく、何者でなくてもよく、将来のことはふわふわと夢見るたけで過ごしていた。もちろん卒業が近づけば現実に叩きのめされるのだが、それでも茫漠とした夢を抱えて自分探しをする余裕があった。

その作品を今の学生が演劇にして演じるとすれば、当然ギャップに直面せざるを得ない。
今の学生は高校生、ひょっとしたら中学生くらいから世の中のことについて考えざるを得ない。
夢は何だ、何をするのか、何者になるのかを早くから見据えさせられるのである。

口先ばっかりで頭でっかちの大学生のボヤキから始まった芝居は、途中に笑いを挟みつつ、次第にあり得たかもしれない世界を行きつ戻りつする。
同じセリフが違うシチュエーションで発せられ、似たような意味を持ちつつ少しずつ位相がずれていく。
ついに主人公は四畳半のループに入り込み、堂々巡りはじめる。
後半のこの場面は、滑稽さが不気味な雰囲気を醸し出していて、観ていて息苦しくなった。 
そして終盤の叫びと嘆き。棒読みのようだった主人公のセリフがいつの間にか心の奥からの叫びに変わっていた。

小説を演劇の台本にするのはとても難しい作業だと思う。
その挑戦は素晴らしいことで、いろいろ思い悩むこともあるだろうけどがんばってほしいなと思う。

例によって、芝居を観るためだけに遠路はるばるやってきたが、来た甲斐のある、観る価値のある舞台だった。
満足☺️