情報量が多すぎる | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

最近なんとなく憂鬱な気分が続いているのはきっと情報量が多すぎるせいだと思う。

 

習慣になってしまっているので、PCを開けるとすぐにTwitterを開いて眺めてしまう。

たまに投稿することもあるけど、もっぱら読む専門。

リロードを繰り返し、延々と他人のつぶやきを眺めている。

 

最近は(自分がフォローしているせいもあるが)「選択制夫婦別姓制度」の話題が多く流れてくる。この制度に反対している人の意見が引用リツイートで流れてくるんだけど、頭を抱えたくなるような幼稚で破綻した内容ばかりで、だんだんうんざりしてくる。

選択制の意味がわからないのかなあと思ったり、いや、わかっていてあえて反対してるのかもしれないとも思ったりする。いちばんいやらしいなあと思うのは子どもをダシにする意見。子どもがかわいそうとか、いじめられるとか、ご自分の差別意識を前面に押し出していて、大変いたましい。

同性婚とかトランスジェンダーの話題も多く流れてきて、でもそれについて私が何を思ってもどうにもならないから、モヤモヤだけが残る。

ま、見なきゃいいってだけのことなんだけどさー。

 

それよりは、目下の問題は2週間後に迫ってきた芝居の本番だよね。

自分が出る方もそうだし、演出する方も、まだまだ自信を持ってお見せできるレベルに到達してない。もう残り時間もあまりないというのに、大変焦る。

役者にきちんと「台本を読み込む、読み解く力」があるというのは、もしかしたらとても希有なことなのかもしれない、とか思ったりもする。

こちらが読み取ったことと、演出が要求していることが合致すればいい方向へ行く。

もしずれていても、おそらく話をすればすりあわせはできるはず。

これがなかなかできない時にストレスがたまるんだよね。時間がないのに言葉を尽くして説明せねばならず、説明してもなかなかうまく伝わらない。手を替え品を替え説明するんだけど、そのせいで話が逸脱していくこともあって、ほんと説明するって難しいなあと思う。

一から十まで全部指定して、こっちの言うとおりにしろ、というのはある意味簡単な話。でもそれじゃ芝居のほんとの面白さは生まれないし、なにより役者が死んでしまう。役者が持つポテンシャルと演出の意図が化学反応を起こして、想像していた以上の世界が生まれたら、これほど嬉しいことはない。

それにねー。どれだけ指定しても、指示しても、他人がこちらの思惑通りに動けるというわけでもないのだよね。その人の能力にもよるし、スキルにもよる。できることとできないことは厳然と存在してしまうのだ。その兼ね合いをなんとか探ってつないでいく作業が演出なんだろうなあとぼんやり思う。

演出は人を見る目がないとできないことなのだなと改めて思う。この人には何ができて何ができないか。どういう伝え方をすれば理解してもらえるか。人によって対応を変えていかなくてはならないのだ。

昔の演出家はできない俳優を責めていたという話を聞いたりすると、ある意味楽だったんだなあって思う。怒鳴って、下手くそってけなして、それで思い通りにできるならこんな楽なことはないよね。

そうはいかないから頭を悩ませているわけで。

 

 

 

 

「助けて」って人に言ったら助けてもらえるものなのかな。

私にはどうしてもそうは思えないのだけれど。