喪失感の取り扱い方 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

習慣になっていたことをやめたり、ずっとやってきたことをやめたりすると、ぽかんと穴が空いたような喪失感に襲われる。

所属している読み聞かせグループはいよいよ高齢化が進み、メンバーの去就が目下の気がかりである。

みんなそれぞれ事情があるからねえ。仕方のないことではあるのだが、「おはなし会」というものを開催する上では人数というのは非常に重要な問題であるからして、メンバーが減ったら継続できなくなる活動もあるのだ。

今年度はあと2ヶ月。3月は学校も行政機関も年度末だから、あまり活動する機会はない。だから来月1ヶ月をなんとか乗り切れば今年度の予定事業はすべて終了できる。

そして来年度だ。ここから一気に活動内容を絞っていかなくてはならない。

あれもやめて、これもやめて、と話し合いを続けていると必ずと言っていいほど「やめたくはないわねえ」という声があがる。

その気持ちはわかる。みんなもともと好きでやってるボランティア活動だ。子どもたちの笑顔がご褒美の活動だから、やりたくないわけではない。

それに、今まで20年以上続けてきた活動なのだ。コンコルド効果だってある。

「せっかく今までやってきたのに、やめちゃうなんて」と思ってしまうのだな。

最近はことあるごとに、活動継続の困難について話してきた。ぶっちゃけ、急にお休みせざるを得ない人はけっこういるし、徐々に体調が思わしくなくなっていって、活動が難しくなってきてる人がほとんどなのだから。

でも、「○○さんと○○さんはもうできないとのことですので、今後は活動を減らしていきます」なんてむきつけな言い方はできない。そこはそれ、高齢女性の集まりだから、ちゃんと気を配って遠回しに言わなくてはならないのだ。

そのために、何度も何度も同じことを言い、少しずつ諦めてもらう方向でやってきた。

私自身は短気だし、さほどこのグループに思い入れもないので、「できないならやめるしかないよね」と思っているのだが、そういう意向を押しつけるわけにもいかない。

長期戦を覚悟していたのだが、ここへ来てちょっと流れが変わったような気がする。

 

いろんな事情が重なり、実際問題として活動出来る人が極端に少なくなってしまったのだ。

その結果、今までやってきた活動のいくつかをやめることになった。

なんでかな、みんな言い訳するんだよね。「やりたい気持ちはあるのよ。でも」って。

やめることに賛成する=やりたくないと思っている、みたいに見えちゃうのかなあ。

でも、どっちかを選ぶしかないのだよね。やりたいと思うならがんばって時間を作り、少しでもスキルアップするための努力を続ける。予定の日時にその場所へ行く。

それがもうしんどい(体が動かないとか気力が続かないとか)なら、断念するしかないのだ。

 

たぶんに情緒的な問題なんだろうなと思う。みんな実情はわかっているのだ。

でもそこをビジネスライクに割り切ることが不人情だと感じてしまうのだろう。だからしきりに「やれるなら続けたいんだけどねえ」と言う。

できないことはわかってるけど、「でもさみしいねえ」という。

最初私は、その「さみしい」を解決しなくちゃいけないのかと思っていた。だから、やめないために新メンバーを募集したり、勉強会を開いたりしていた。でも新メンバーは入ってこないし、スキルアップのための努力はやんわりと拒絶された。(できないわ、とか、そこまでしなくても、みたいな感じ)

違うんだな。ただそれに共感すればよかったのだ。

「そうですね。さみしいですね」って言ってればいいのだ。だってさみしいことには違いないから。今まで当たり前のルーティンになっていたことが突然消える。その時間がぽかっと空いてしまう。そりゃあさみしいって思うのも無理はない。

さみしいね、残念だね、と言いながら店仕舞いしていくしかないのである。

 

とはいえ、まだ完全に活動を休止してしまうわけではないので、しばらくは細々と活動を続けていく。

きっとそのうちに、自然な流れで完全休止の状態に行き着くだろう。それを静かに待つことにする。