一線を引く | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

いずれやめると決めてから、だいぶ心が落ち着いてきた気がする。

そうしたら、なんだかごちゃごちゃ言ってくる人たちのことも、距離を置いて見ていられるようになった。

以前は、「なんでそんなこと言うんだ。言ってくるんだ。どうしたいっていうんだ」とイライラカリカリしていた。それは、無意識に自分と同じ土台に立って物事を考えている、同じ定義で言葉を使っていると思い込んでいたからだ。だから、一生懸命説明したし、言い合いもした。あのころは、該当する人からラインが、メールが来るだけで胃がキリキリ痛くなったものだ。

 

なんでこれがわからないんだろう、どうして理解してくれないんだろう、どうして質問に答えずに別の話題をほのめかすんだろう、とずっと頭を悩ませていた。

私の言い方がまずかったのか、説明不足なのか、といろいろ考えた結果、確かにそういう側面もあるけど、根本的に視点が違うんだということがわかってきた。

そこで、一線を引いて冷静に眺めてみると、なんとなく見えてくるものがあった。

 

まず思うのは、あの人たちは常に上位者を想定している、ということだ。

「こんなことしたら、文句が出る」「こんなこと言ったら怒られる」という発想が根本にある。

だから「間違えてはいけない」「失礼なことをしてはいけない」ということが最重要事項となる。

○○してもいいですか?を多用するし、○○したらまずいんじゃないかな、とまず考える。

一応その団体の役員という運営を担当する立場にいるのに、自分たちで何かを決定することを異常におそれる。

そういうときに出てくるのは「皆さんのご意見を聞いてから」という発想。

 

たまたまTwitterで見かけたのだが、「教育委員会が、先生たちの多忙さを知るために、先生たちにアンケートを実施して、学校ごとにまとめてもらおうと発案した」みたいな話。

これ読んで思わず笑っちゃったんだけど、まさに今うちの団体でも似たような状況が発生している。

ボランティア団体なので、諸事情でやめていく人も多い。あと、そもそも魅力が少ないので新規加入もない。私の実感としては、「みんな今までの事情に引っ張られて仕方なしに会員を続けているんだろうなあ」という感じなのだが、どうもそういうふうには思わないみたいで、「会員の皆さんの思いをくみ上げて今後の会の活動を考えていく。そのためにアンケートをとりたい」なんて言ってる。

アンケートもなにも、現状がすべてを物語っていると思うんだけどね。それはわからないらしい。

あるいは、自分たちで決定したという重責から逃れるために、責任転嫁の先を探しているということなのかもしれない。

よく私も「そういう責任ある立場なんだから発言内容などは考慮するように」って怒られるんだけどさ。私は自分が言った言葉には責任を持つつもりで発言してきたし、失敗したら謝罪あるいは解任ってこともちゃんと考えてるよ。もちろん善後策は講じるけれども。

考慮しすぎて何も自分たちで決められない、一般会員に決定権を委ねるっていうのが責任ある行動とはとても思えないんだがね。

ということをつらつら考えていると、ああこの人たちの中に幻の上位者がいて、常にその人の許可や承認を必要としているんだな、と思えてきたわけだ。

そりゃあ私がとやかく言ったって取り合ってもらえるわけがないね。私は上位者ではないので。

そのくせ、表に立つのは私なのだ。書面だって私の名前で出すし。

笑えるのは、私の名前で出す書面も、他の人が作成するってこと。おお、政治家みたいじゃんと思ったよ。官僚が作文するんだよね、ああいう人たちって。

ふだんは、「心のふれあい」だの「つながり」だの「絆」だのをお題目に上げてはいるけど、私が書いた文章は彼らの基準には合格しないらしくて、完全に書き直される。学校で図工の先生に絵を直されるように。ああ、そういう存在の文書なんだなと思って、よほど引っかからない限りは私の名前で文書を出してるけど、どうなんだろうなあ。役所でもないのに、「心のつながり」とかを大事にするはずのボランティア団体なのに、そういう官僚的作文が通用するんだな。というかさせてるんだね。

 

私としてはもっとざっくばらんな付き合いができる会にしたかったんだけど、そういうのが気に入らないタイプの人もたくさんいる。「きちんとしないと」って思う人たち。間違えたら怒られる、とおびえている人たち。

そういうのはねえ。私個人の力ではどうすることもできないのだよ。

だから一線を引いた。もう無理だ、と。

今はわりと心穏やかに、あの人たちのドタバタ騒ぎを眺めている。