昨夜、BS日テレで「笑点をつくった男たち」というドラマが放映された。
録画しておいたものを今日になって観たのだが、なんだか泣けてしまって困った。
別に泣かせるようなつくりではないので、私が勝手にいろいろ思い入れてしまっただけのことである。
気づくとこのジャンルの作品が好きである。
特に、お笑い芸人の話や、落語家の話。
どういうところがそんなに好きなのかちょっと考えてみた。
漫才や落語そのものが好きなのだろうか。
確かに嫌いではない。でも、がっつり入れ込んで観るほどでもなさそうだ。
漫才のネタや落語のネタそのものよりも、それを演じている「人」に興味がある。
どういうポジションで、どういう心持ちで、どういう姿勢でそれに取り組んでいるのか。
そこにいちばん興味がある。
だから、そこを描いた小説や漫画やドラマ、映画に惹かれるのだと思う。
落語界の話に特に心引かれるのは、落語が何度も凋落の危機に瀕してきたからなんじゃないだろうか。
「昭和元禄落語心中」というコミックでは、昭和初期が舞台になっていた。
古典落語が完成して庶民に歓迎されていた時代から、戦争時代に入っていくつかの話が禁止される。日本では「ふざけたことはよくないこと」という価値観が強固にあるから、戦争中というのは落語にとっては受難の時代だったと思う。
そして戦後の復興期には、以前の落語が上演されるだけでも価値があるとされた時期があったが、その後時代が進むにつれて、落語の世界と現実世界との乖離が大きくなっていく。
要するに「落語なんてもう古い滅びた文化だ」という認識になっていったわけだ。
それでも、いにしえの文化に価値があるとする人たちが頑張っていて、新しい風はなかなか吹かない。そこに若い世代が挑んでいくという構図が私を引きつけるのだと思う。
まったくそんなつもりもなかったのに、気づいたらストーリーテリングの世界に入っていた。
「昔話を語る」という活動は、今までまったく聞いたこともなかったし、当然やったこともなかったのだが、他人に見せる(聞かせる)という一点で芝居に通じるところがあり、思いのほか熱心に語るようになっていた。
最初の頃はテキストを覚えて語るだけで精一杯だったのだが、やはり慣れてくるといろいろ見えてくるものもある。そのあたりの葛藤が、「旧弊な落語会で葛藤する若手落語家」の姿に重なってしまうのである。
落語家はそれに一生をかけている本気のものであるのに対して、ストーリーテリングは要するにボランティア、暇な人の気まぐれな活動である。比べるのもおこがましいことではあるし、悩みはまさにそこ(ボランティアであること)から発生する。
落語家の芸は、それぞれが命を賭けて磨いていくものだ。だから多少人に批判されようとも、芯がぶれなければなんとかなる。
ところがボランティアのストーリーテリングの場合は、スキルアップする余地というかモチベーションがないのである。「だってボランティアなんだから(できなければやめればいい)」という言い訳が常についてまわる。おまけに、ボランティアということは、どうしたって「してあげてる」という上からの立場になりがちだし、要請が無くなればできなくなってしまう。
「昔話などのおはなし」そのものと、それを語る行為というのはまったく別のものである。
昔話にもいろいろ問題はあるけれども、そういう話が存在したという意味は大きい。
また、昔話ではなく創作の物語であっても、「おはなし」そのものの価値は非情に大きいと思っている。
しかし、だからといって、それを語る行為のクオリティが低くてもいいということにはならない。
どんな良いお話だって、ちゃんと伝わらなければ、楽しんでもらえなければ価値が半減する。
だから語る技術を磨くべきだというのが私の考えなのだが、どうもこのあたりをごっちゃにしてしまう人が多いのだ。「お話がいいのだから、小手先の技術なんかいらない」という人もいる。変に小細工しないほうが伝わるのだ、という人もいる。
このあたりの価値観の違いが、落語界の様々な流派の存在と似ているなあと思う。
漫才師の世界の話にもそういうものがある。
芸ってそういうもんなんだろうな。それを巡ってあれこれ悩んだりぶつかったり、解決策を見いだしていったり、時には敗れ去ったりっていう様を観るのが好きなんだろうと思う。
私は、立川談志という人は好きではなかったけれども、立川談志を描いたドラマはとても面白かった。演じていた駿河太郎が最後には立川談志に見えてきたくらい。
フィクション仕立てだったから、全部が真実というわけではなかっただろうが、それでも見えてくるもの(古い時代にあらがってもがいていた姿)があって、胸を打たれた。
芸事、というよりも、その芸事に関わっている人、を見るのが好きなんだなと改めて思った次第。