Twitterと私 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

Twitterのタイムラインを眺めるのが好きだ。

 

アカウントをとったのは2009年。年数だけでいったら長老クラスらしい。

ツイート数はさほど多くない。

他人様が投稿しているものをひたすら読んでいるのが好きなのだ。

 

私が投稿するのは、どこかへ出かけたときとか、なにがしかの思いがこみ上げてきたときくらい。

あんまり愚痴も書き込まない。たまーにぼやくけど、詳細がわからないようにかなり曖昧な感じでぼやく。

この「曖昧なぼやき」には思いがけない効能がある。自分の不満な気持ちを客観視できるのだ。

具体的な事象を抽象的な物言いに変換するには、いったんその事象から離れて俯瞰的に見る必要がある。その作業をしていると、腹を立てていた気持ちがなんだか他人事のように見えてくるところがあって、ツイートしただけで満足してしまう。時には下書きだけで満足してしまい、実際には投稿しないことすらある。

言語化することで事象を把握し、文字化することで改めて意識できるからなんじゃないかと思っている。

 

こちらからリアクションを起こすことはめったにない。

少なくとも知らない人にリプライを送るなんてことはまずしない。向こうから来たらそれなりに反応するけど。実際に反応があるとドキドキしてしまって、心臓によくない(笑)。

リアルの知り合いなら少しはやりとりする。気持ちが舞い上がってるときに、思わずリプライを送ってしまって、あとから心臓バクバクになる、なんてこともたまにある。

 

「いいね」は最近気軽につけるようになった。

昔は「ふぁぼ」といって、「このツイートは気に入った」とか「素敵だ」とか「気にしてるよ」という意味合いでつけられたんだけど、今はハートマークに変わってしまい、「いいね!」という一種類の感情に限定されてしまったので、ちょっと使いづらい。

早い話、相手が落ち込んでるとか、嫌な目に遭ったとか、そういう内容の場合に「いいね!」とは言えないだろう、と思う。それしか「見てるよ」を示す合図がないから仕方なしに「いいね」を押すこともあるんだが、押されたほうは微妙な気持ちになるだろうな、と思う。

でも、無反応だとそれはそれでさみしいと思ってしまったりするから、このへんは実に微妙なところである。

 

Twitterの仕様はよく変わる。

最近だと、時系列で表示されなくなってるらしい。そういえば、ちょっと気になるツイートを見かけても「10時間前」なんて表示されてて、そんな前のつぶやきなのか、と思う。さかのぼれないよ。

あと、やたら広告のツイートも増えたなあ。広告のツイートは専有面積が広いので、PCの場合だとけっこうスクロールしないと次が見えない。スマホだとほぼ1回画面を占領するので、すぐに見る気が失せる。

私はネット上に表示される広告はほぼ見ないので、Twitterに流れる広告ツイートは邪魔なだけ。

以前はこまめに消したりブロックしたりミュートしたりしてたけど、まったくもってキリが無いし、全部消えるというわけでもないということに気づいてからは、ただ無心にスクロールするようになった。

広告といえば、私は飛び出してくる広告や動画になってる広告が大嫌いである。

画面で文字を追っているときに視界の端で動くものがあるのが耐えられないのだ。そういうのは極力×を押して消すようにしている。

一生懸命広告を作っている人、ごめんなさい。私はそういう広告を見て購買意欲が高まるタイプではないのです。必要なところだけ見たい。

 

私は今1000人くらいフォローしているので、タイムラインはなかなかバラエティに富んでいる。

小さな子どもを育てている女性のツイートは、胸が苦しくなるようなものが多い。(まあそういうものを吐き出す場所でもあるからなのだが)

n=1 だとしても、なんでそういう感覚の男性がいるんだろうか、とか、どうして夫の親ってそういうふうなんだろうと思うような事案が毎日流れてくる。

どこの誰の話かもわからないけど、でもきっとどこかでこういうことが毎日繰り広げられているんだろうなと思うと、ちょっと絶望的な気持ちになる。

私の息子は今大学受験の年なのに、姑ははや「大学で誰かいい人見つかるかねえ。その人と結婚するのかしら」なんて遙か未来の話をしてくる。いや、待って、まだ大学にも入ってないし、「いい人」が見つかるかどうかとか結婚するかどうかなんて、今考えることなのか?

もちろん姑に悪気なんてなくて、純粋に息子の人生を夢見てくれているんだと思う。ただ、そこに出てくるのが「大学でいい人見つけて結婚する」という道だというのがちょっとがっくりくるところ。まあ仕方ないことではあるんだけども。

 

Twitterが好きなのは「文字情報」だからだと思う。

物理的な音はないけど、たくさんの人がいろんなことをしゃべってる。それを画面越しに聞いているのが好きなのだ。

まとまった物語を読む時間や体力がないときに、とりあえずTwitterを開けば、なにがしかの「物語」が流れてくる。ときどき不毛な議論が巻き起こってることもあって、ちょっと追いかけて読んだりする。リアクションはしないけど、あれこれ想念が巻き起こってきてそれでブログを書いたりすることもある。

ずーっと眺めていると眠気を催すこともある。頭がぼーっとしてきて、さまざまな出来事や想念がごった煮になって蒸発していく。後に何も残らないので、気持ちが落ち着いて眠りに向かうことができる。

 

最近見始めたTikTokでも眠気を催すことはあるんだけど、やっぱり動画は見続けるのがしんどい。

スマホだと1画面で一つの動画だから、次々にスクロールしていくんだが、その作業すらめんどくさくなったりする。

TwitterはPCの画面にそこそこの量のツイートが出るので、少しはまとめて「読む」ことができて良い。

 

「読みたい」んだなあと思う。

誰かの思い、誰かの考え、そういうものを摂取したいのだ。

本は一人の人の世界。Twitterは雑多な人々の雑多な世界ののぞき見。そんなイメージである。

そうそう、Twitterではリンク先に面白い読み物を見つけることもあって、そういうときは思いがけなく良い拾いものをしたような気分になる。

気づけば数時間経っていることもあるから気をつけないといけないんだけど、やっぱりTwitterは面白いと思う。