演劇とは | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

ゆうべ、YouTubeで、2020年度版の「赤鬼」(野田秀樹作・演出)を観た。

 

私が所属している劇団が最初に上演した演目である。

ストーリーは知っていたけど、舞台を観るのは初めてだった。(昔上演したものは、ちらっとしか見てない)

 

実際に劇場で上演しているものの映像化なので、ある意味見やすくなっていた。

もしこれを劇場で生で観ていたら……。

わけわかんなかっただろうなあ、と思った。

久しぶりに「ザ・演劇」と言う感じだったなあ。

役者さんたちの動き、声の出し方しゃべり方。物語の展開の仕方、見せ方。

どこをとっても「演劇」以外のなにものでもなかった。

非日常であり、リアルなようでいて非現実的なものだった。

 

ほんとにしばらく「演劇」ってやつを観てなかったんだなあと思った。それくらい違和感があった。

「演劇」ってああいうものだったかしら、と改めて考え込んでしまうような。

そんな芝居だった。

 

面白かったか、と自問してみると。

「演劇的表現」は非常に興味深くて、すごいなあと思ったのだが、いかんせん芝居の中で用いられている価値観が嫌すぎてしんどかった。

あの、下ネタっぽい価値観は、あえて、なのか、それとも作家のうちに自然にあるものなのか。

そういうものもひっくるめての、「村人たち」のあり方なのかもしれないんだけど。

 

私はあの「赤鬼」に出てくる村人たちが大嫌いだ。

自己中心的であり、ご都合主義であり、視野狭窄であり、とことん利己主義である。

そしてそれは、「人間」の大多数の性質である、と思わされるような作りになっている。

そういうふうに作っているんだろうなあとは思うんだが、「あの女」に対する態度だとか、「赤鬼」に対する自分勝手な態度だとか、観ていて暗澹たる気持ちになる。

そうなんだよ、人間ってこんなに自分勝手で、都合よく自分の言ってることをねじまげて、自分だけ得しようとしたり、損しないように平気で何かを踏み潰すようなことをするんだよな、と思ってしまうから。

観終わると、観る前よりもっと人間が嫌いになる。

そんなふうに作られている。

残念ながら私は、「愚かゆえにいとおしい」というふうには思えないのだ。私もまた心が狭い。

 

コロナ禍のせいで、いろいろなことが変わってしまった。

もう前みたいに、何も考えずに劇場へ行って芝居を見ることはできない。

常に「感染対策」が念頭にある。それが当たり前になってしまった。

オンラインでの試みもあるんだけど、なんだか積極的にやってみようという気持ちになれないでいる。

私の中にとてもわがままな子どもがいて、「前みたいに舞台に立って、何も気にせずに芝居をしたい。それができないならもうやりたくないよ」という。

そのせいで、微妙に演劇から遠ざかっているような気がしている。

もちろん、できる範囲でなんとかやってみよう、という人がいたら、そうですねと同意してなんとか活動を続けようとは思っているんだけど、その一方で「もういいよ」という気持ちが消えない。

とても中途半端で宙ぶらりんな心持ちが続いているのである。

 

だからかな。映像とはいえ、ガチな芝居を久しぶりに見たら、すごいなーと感動すると同時に、「でもやっぱりもうこういうのはできそうにないな」という諦めの気持ちがわいてきた。

 

「演劇」ってなんなんだろうな。改めてそれを考えてしまう。