色づく果実 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

少しずつ、グレープフルーツの実が色づいてきました。

 

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ここに写ってるだけでも7個ありますが、この右横にも5つくらい成っています。

夏のころは葉っぱと同じ濃い緑色をしていたので、どこにあるんだろうと目を凝らさないと見つけられなかったのですが、このくらい黄色みを帯びてくるとすぐにわかりますねえ。

17年目の結実、って感じです。おととしとかその前とかに1個だけ成っていたのはお試しだったのなあ。

枝の剪定問題は保留になっています。なんかうかつに話題にすると藪蛇になりそうで怖い。

食べられるようになるのは、年が明けてからでしょうね。

 

「ドクター・デスの遺産」を観てきました。

なんというか、いろんな思いが渦巻いてしまう映画でした。

綾野剛さんはとてもよかったんですが、最後まで綾野さんが演じた「犬養」というキャラには共感しづらいままでした。

映画としては安楽死を肯定するわけにもいかないんだろうなあと思うような演出で、ちょっと無理やりそっちへ引っ張ってないか?と思うようなところもあったんですけどね。

木村佳乃さんの七変化がすごかったです。

 

昔、「フェンス」という脚本を書きました。

とあるビルの屋上に、自殺志願者が4人集まってしまう、という話。

4人集まっちゃったもんですから、なかなか実行できなくてまごまごしているうちに、一人が「オレが殺してやろうか」と持ち掛けます。言われた方は慌てて拒絶するんですね。

持ちかけたやつは、「なんでだ。自分で死のうと他人に殺されようと、死ぬことには変わりないじゃないか」と詰め寄ると、「自分で死ぬのと、他人に殺されるのでは大違いだ」と言うのです。

書いた当時は、私の心情としては、持ちかけた側に近かったんですよ。どういう手段をとろうが、自分が死ぬことには違いないだろうに、と。でもそこで、「それは違う」と言わせてしまった。

「死ぬ権利」という言葉を聞くとそのことを思いだします。

 

依頼を受けて薬物注入による安楽死を行う人がいるとして。

さてそれは、死ぬ方から見たら自殺なんでしょうか。殺人なんでしょうか。

法律的には他人を殺しているので殺人になるんでしょうけどね。

 

死にたくないという人を無理やり、勝手に殺してしまった場合には、殺人として非難しやすいと思うんですよ。感覚的にも「それはいけないことだ」とすぐに思える。

でも、たとえば病気などで耐えがたい苦痛が続き、しかも治癒が望めない場合に、「この苦しみをとめてくれ」って願うことはあるんじゃないかと思うのです。

映画の中でも、そういう事例が出てくるんですが、「それでも死なせてはいけない」と言うのはたやすいことだと思うんですよ。人道的に聞こえるし。でも、病気の壮絶な苦しみに加えて、家族の肉体的疲弊、経済的困窮が限界まで達する可能性を考えているのかなあと思ってしまうのです。

たぶん、「それでも死なせちゃいけないんだ」という人はそこまで責任をとらない。それを思うとね、なんか「とことんまで苦しめ」って言ってるようにしか聞こえなくなってしまうのです。

 

安楽死をめぐる議論の中で必ず出てくる、「周囲への忖度、気兼ね、遠慮」も映画の中で描かれていました。生きていることで家族に迷惑をかけている、と本人が思い、それを申し訳なく思って死を望む場合がある、と。たぶん安楽死反対を言う人が心配しているのはこのことなんだろうなと思いながら観ていました。

確かにそういうふうに思ってしまうことはあるんだろうなと思いました。それでなくても日本は人権意識が低いし、「人に迷惑をかけるな」が道徳として通用している社会なので、迷惑をかけるくらいならいっそ、と思うだろうことは想像に難くない。

他人に頼まず自分で死ね、という話なのかもしれませんが、いろんな理由でそれができない場合もありますからねえ。そこで他人の手を借りることの是非はどうなのか、ということなのでしょう。

 

どこに共感すればいいのか、ここに共感していいのか、いろいろ迷う映画でした。

生きたいと思う人が生きていく権利、は絶対に必要だと思うんですが、死ぬ権利はもしかしたらないのかもしれません。

自分の死は自分の裁量では扱えない。扱いたいと願う人もたくさんいるでしょうが、たぶんそれは周囲が許さないのだと思います。

面倒見るわけでもなく、責任を取るわけでもないけど、「死ぬな」って言うんですよ。で、死んだらぼろくそに非難するんです。死んだ人のことも、死なせた人のこともね。

 

私は「生きること」を手放しで、無条件で肯定できないのかもしれません。

だからいろいろ迷っちゃうのかもなあ……