夕餉の匂いを運ぶ風 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

私にとって「ガラスの仮面」は永遠のバイブルである。いろんな局面で、「ガラスの仮面」のワンシーンやセリフが浮かぶ。

そういえば、中止になってしまった芝居の稽古をしているとき、共演者の一人と「おらぁ、トキだ!」で盛り上がったことがあった。あの瞬間の嬉しさったらなかったなあ。
 
今朝もまた、とあるシーンをふと思い出した。
昨日も書いたが、コロナウイルス蔓延によって、私の世界は真っ白になってしまった。稽古もない。観劇もない。なんにもなくなってしまったんだなと思ったとき、ふと「なんで生きてるんだろう?」という疑問が沸き上がってきた。
なぜ朝起きなくてはいけない?なぜごはんを食べなきゃいけない?なぜこんなふうに1日を過ごしていかなきゃいけないんだもう芝居もできないのに。
そんな思いが強く吹き上がってきたのだった。
今はまだ、仕事をしている夫がいて、休校中だけど食べ盛りの息子がいるから、そのためだけでも日常生活を続けていかなきゃいけないと思えるけど、自分のことに限っていえば、生きている意味なんてなんにもないという気がしてきた。
 
そんなふうに思いながら眠ったのだが、今朝目が覚めたときにふっと思い出したのが、「ガラスの仮面」のあるエピソードだった。
スキャンダルで演劇界を追われた北島マヤが、「もう演劇はやらない」と決めて穏やかな日常生活に幸せを見いだそうとするのだ。
掃除をしたり、洗濯をしたり、食事の支度をするために買い物に行ったりする。夕方の風に、どこかの家の夕ご飯の匂いが混じり、その風に吹かれてマヤちゃんは「こんな幸せもあったんだ」としみじみするのである。
演劇をやらない、ということは、演劇のない人生を送る、ということなのだ。そしてそれは、私が数年前まで送っていた生活でもあった。
けっこう長くやっているような気がしているけれども、ちゃんと思いだしてみれば、劇団に所属してからまだ6年くらいしか経ってないのだ。(その前も断続的に演劇に関わってはいたけど)
それなのに、いつの間にか役者気分になってた。いつも先の公演予定があって、今は稽古はないけどそのうちにまた稽古漬けの日々が始まる、そんな毎日を送っていたせいで。笑止千万である。
演劇ができなくなったら、また元の私に戻るだけのことなのだった。
 
マヤちゃんは結局のところ、また演劇界に戻っていく。才能があるし、待っている人もいるのだから。
そのきっかけが「泥まんじゅう」なのである。
たぶん、私には「泥まんじゅう」はやってこない。自分で持って行くなら別だけど(笑)
 
演劇がなくなった今、どうして毎日目を覚まして生活を続けなきゃいけないんだろうと思ってしまうけど、まあ目が覚めてしまうんだからしょうがない。
今日は天気がよかったので、ずっと気になっていた玄関の掃除をした。水を流してデッキブラシでゴシゴシ。薄汚れていた玄関が明るくきれいになった。
その勢いのまま、台所の掃除へ突入。換気扇を洗い、シンクの周りを磨いた。
去年の暮れに大掃除をしなかったので、かなり久しぶりの掃除である。日常的な掃除はちょこちょこやってたけどね。大掃除は冬じゃなく、春か夏にやるといいっていうのはほんとだなと思った。なにより、水が冷たくないのがいいし、油汚れも落ちやすい。
午前中いっぱいかけて、ピカピカに磨き上げた。
 
でも、終わったら、ものすごく虚しくなった。
掃除ってほんと「シジフォスの岩」だと思う。きれいにしたそばから汚れていく。
もう少ししたら夕食の支度をするんだけど、そしたらもう汚れていくのだ。
掃除は究極の自己満足だなあと、つくづく思った。
特にうちは、夫も息子もそういうことに一切関心がない。
汚くしていても文句は言われないという利点はあるけど、同時に、きれいにしても気づかないというデメリットもあるのだ。だから常に、掃除と模様替えは私一人の自己満足で終わる。
大掛かりな磨き上げ掃除をやってこんなに虚しい気持ちになったのは初めてかもしれない。
まあ、午前中の時間をつぶせたから、よしとしよう。