植物の力を侮るべからず | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

うちの庭には、樹齢15年になるグレープフルーツの木が2本と、放置された芝生がある。

年末の大掃除、なにもやらないのもなんだからと、庭の草取りをすることにした。

 

この芝生は、この家に入居してまもないころに植えたものだ。

そのころ夫はゴルフにハマっていて、「庭でパターの練習をするのだ」と言って芝生を植え、カップを埋めた。何回かはやってたのかなあ。いつしかゴルフ熱はさめ、芝生は放置されるようになった。

ほっとくとどんどん伸びるのね、芝生って。時々思い出したように刈ってたけど、それもここ数年はやらなくなって完全放置。

そしたらどこかの野良猫がトイレに使うようになってた。近くのドラッグストアの裏手に生息してる猫がいるんだけど、おそらく彼らが遠征してきてちょいと用を足していくんだろうと思われる。

おしっこならまだしも、ウンチを置いていくので夫は怒り狂ってる。

あれ、不思議なんだよなあ。猫ってウンチを埋めるんじゃなかったのか。芝生の上だと埋められないと思うんだけど。でもあまりにわさわさ茂ってるんで隠した気になれちゃうのかもしれない。

 

立ち枯れた雑草や季節外れのカラスノエンドウの群れをぶちぶち引き抜いていたら、2か所、ウンチされてるのを発見した。形状が違ってたんでおそらく別の猫だろうと思われる。

「かごの中のかりんとう」みたいな感じで芝生の上にちょこんと落ちてる。

なんでわざわざここまで来るのかねえ。というか、むしろ近くで姿を見かけたことがないのだが。

どこにいるのだ、猫は。

夫は猫嫌いなので言えないが、私は実はひそかに「猫に会いたいな」と思ってる。野良猫と仲良くなるという夢をひっそりと持ってたりするのである。かないそうにない夢だけど。

 

まあそれはいい。

問題はグレープフルーツの木である。

彼らは入居と同時に庭に植えられた。その前は小さな鉢だったんだよね。スーパーで買ったグレープフルーツの種を植えたら芽が出て育ったのだ。

植えたときはまだまだひょろひょろした幼木だった。でも地に根を下ろしたことでぐんぐん成長していった。

あれは植えてから何年目のことだったか。そこそこ葉も茂って木らしくなってきたころ、アゲハチョウが卵を産みに来た。

このあたりは大変自然豊かなところなので、いろんな虫がやってくるのである。

アゲハチョウは柑橘系の木にしか卵を産まない。思いがけずこんなところにいい場所があるではないか、とアゲハチョウ界隈で話題になったのかどうか、気づけば大量のアゲハチョウがやってくるようになった。そしてやたらめったら卵を産み付けていったのである。

卵から孵った幼虫たちは、むしゃむしゃとグレープフルーツの葉を食べていった。その勢いたるやすさまじいものであって、あっという間にグレープフルーツの木は丸坊主になってしまった。

ほんとに見事に一枚の葉も残さずに食べてしまったのである。

幼虫たちは思い思いに羽化して飛び去って行った。

残されたのは枝だけになってしまった幼いグレープフルーツの木だけ。

こんなに葉っぱがなくなってしまったら枯れてしまうのではないかと心配したものだ。

 

驚いたのは翌年。

2本のグレープフルーツは申し合わせたように枝から鋭いとげをはやした。5cm以上はあるような、太くて鋭いとげである。先端の鋭さは極太の針にも負けないくらいであった。

それから彼らは巨大な葉をはやした。通常の葉の3倍くらいあるような巨大な葉がわさわさと茂った。

もしかしたら何かしらの有毒物質も生成していたかもしれない。翌年のアゲハチョウの来訪は極端に減った。

このままとげが出続け、葉の巨大化が続いたらどうなるんだろうと思っていたら、翌年は通常の大きさの葉に戻った。出たとげが引っ込むことはもちろんなかったけど、増えることはなかった。

年単位での防衛策に感動すらしてしまった。

生物界での食物連鎖の調整、という場面を垣間見られたのはとても貴重な体験だったと思ってる。

 

グレープフルーツの木は年々成長を続けてる。

実をつけたのは「ちょっと小さくて弱っちいほう」と認識していた木のほうだった。

一昨年に1個。去年に1個。今年はついに結実しなかったみたいだが。

大きい方はひたすら葉を茂らせることに専念しているみたいだ。日当たりとかが関係してるのかもしれない。

成長しているということは葉が繁るということであり、枝が広がっていくということなので、3年くらい前に夫が枝打ちをした。落とした枝は木の根元に積み上げた。とげが大きすぎて手に負えないのである。

うかつに触るととげが刺さる。それがとんでもなく痛いのである。

放置しているうちに枯れていってなんとかなるんじゃないか、と根拠もなく楽観視していたのだが、こいつはそんなに生易しいものではなかった。

枝本体が枯れようがどうしようが、とげの鋭さにはなんの変化もなかったのである。

 

草取りしながら積み上げた枝の近くに行った夫は、おそらく枝を踏んだのだろう。

終わってから靴底を見たら、何本ものとげが刺さっていた。

分厚いゴム底に深々と突き刺さっている。手で抜こうとしてもびくともせず、しかたなくニッパーで引っ張り出した。その先端の硬さと来たら! 金づちで打てば釘の代わりになるんじゃないかと思えるほどだった。枯れても、というかむしろ枯れたせいでよけいに強度があがったとしか思えないありさまであった。

 

私は「自然は優しい」という考え方には賛同しない。

自然は別に人間のために存在するわけではない。自然のものは、天然のものは人にとって良いもの、優しいものではないと思うのだ。というかまあ、ほかの生物だってそれぞれ自分のために生きているんだから、身を守るために毒だって持つだろうし、攻撃だってするだろう。

なんでもかんでも「自然、天然」がいいなんて、お気楽にもほどがある。

私は、アゲハチョウの襲来から身を守るためにグレープフルーツが取った作戦を見て、植物をあなどってはいかんということを強く思い知らされた。

じっと動かず物も言わずおとなしく見えるからといって、何も考えてないわけじゃないし反撃してこないわけじゃないんだよな。

 

年賀状の用意もお正月飾りの用意もすっかり忘れていた2018年の暮れ。

年々そういう感覚が薄れていくような気がするなあ。

とはいえ、正月飾りくらいはしようかな。