カラーボックスのころ | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

今日は組み立て家具の日だそうで。

 

組み立て家具と言えばカラーボックス。

大学の寮に入って最初に買った家具はたぶんカラーボックスだ。

安くて、なんにでも使える。組み立てだって簡単だ。

とはいえ、初めて組み立てたときは悪戦苦闘した。それまでそういうことをしたことがなかったから。

でもすぐに慣れた。

気が付いたら部屋の中に何本もカラーボックスが置いてあるようになった。

 

あれはほんとに使い勝手がよくて、ふつうに立てて置いて、3つの仕切りにいろんなものを入れて使ったり、横に倒して、長い側面をテーブルのようにして使ったこともあった。

後ろの仕切り板を外して前後から使えるようにしたこともあったなあ。

 

カラーボックスとファンシーケース。それが私にとっての家具のすべてだった。

実を言えば、今でもあのころから使っていたカラーボックスが家のあちこちにある。まだ現役で働いているのである。

 

ユーミンの初期のころのアルバムを聴いていると、若かったころの気持ちが鮮明によみがえってくる。

あの生活感のなさは、親元にいてのんきに暮らしていたころや、その後の一人暮らしのときの気ままさによく似あう。今日も明日も、時間は無限に自分のためにあって、自分のことだけ考えていればよかった。

それは一面では、ふわふわとしてとりとめがなく、足元が定まらない生活であり、未来は茫漠とした不安の霧に包まれてはいたのだけれど。

 

今、私は結婚して持ち家に住んでいるが、いつまでたってもこの家が「自分の家」であるという実感を持てないでいる。

入居して10年以上がたち、外壁がそろそろくたびれてきたために、しょっちゅうリフォーム会社や塗料会社の訪問営業を受ける。やらなきゃいけないんだろうなあとは思うのだが、どうにも切実な気持ちになれない。「奥様のお宅では~」みたいな言い方をされるとついむきになって、「私の持ち物じゃないんで」と言ってしまう。

名義は夫だし、ローンを払っているのも夫の給料だし……なんて考えだすとどうしても、「私のじゃないんで」と思ってしまうんだな。

この家は食器棚は作り付けだし、クローゼットも作り付けで、改めて食器棚やタンスを買う必要がない。

物を片づけるための家具は、組み立てのワゴンやカラーボックスで十分だ、と思ってしまう自分がいる。

 

田房永子さんのWEB漫画で、「どうしても家具が買えない」というエピソードがあった。

自分のお金が減るのがものすごく不安なのだが、それは、そのお金はいずれ逃げるときのためのもの、という気持ちがあったからだ、という話があって、ちょっとわかるような気がした。

私は逃げるというわけじゃないんだけど、今ある生活は仮のもの、という感覚がいつもあって、あまり執着しないようにしているところがある。

だいぶ薄れてきたとはいえ、どこかにまだ残ってる気がする。

 

ふるさと、とか、生まれ育った土地に愛着を持つ、という話に、今一つ共感できないのは、引越しの多かった成育歴にその原因があるのかもしれない。

カラーボックスに象徴されるものって、そういう定着できない心と通じるところがある気がする。