「考えてはいけない」村 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

これは、私の周囲のごく狭い世界でのお話かもしれません。

ただ、先日観た「日日是好日」という映画の中でも似たような考え方が出てきたので、もしかしたらある程度の普遍性はあるのかもしれないとは思っています。

 

先に映画のほうの話から。

映画の冒頭で、お茶を習いに行くことになった典子と美智子。

二人が武田先生のところへいくと、いきなりお稽古が始まります。

お稽古とは言ってもまずは道具の使い方の説明。

袱紗捌きについて流れるように説明されるわけですが、そのとき美智子が「なぜこんなふうにするんですか?」と質問するんですね。

すると武田先生は、世にも異なことを耳にしたという表情で、「なんで?なんでって、そういうものなのよ」と答えます。

「理由はないんですか?」とさらに詰め寄る美智子に、「なんでも頭で考えるのねえ。これはね、まず形を覚えるものなのよ」と先生。

「形式主義なんじゃないですか?」と重ねて問う美智子に、ついに先生はまともに応えることはありませんでした。

「お茶というのは、まず形を覚えるものなの。何も考えなくても体が動くようにする。それが大事なのよ」という教えなんですね。

 

私がこの映画でいちばんひっかかったのはそこでした。

それは確かに一理あるとはいえ、そのことが結局、習う人から「考えること」を遠ざけてしまうのではないか、もっと言えば、「自分で考える芽を摘む」のではないかと思えてならないのです。

茶道は完成された形式がありますが、それは元をたどれば一握りの人間が「こうしたらどうか、ああしたらどうか」という試行錯誤の末にたどり着いた形だと思うんですね。どの分野においても同じことが言えると思います。

新しいものが初めて世に出てきたときには、形式は定まっていないはず。それを何度も繰り返していくうちに、より合理的に、だったり、より美しく、といった方向に変化していくんですね。

茶道のお作法にしたって、その所作の一番初めには必ず何かしらの意味があったはずなのです。その大小は問わず。何か意味があったけれども、その後意味をなくしていったものもあったでしょう。あるいは、意味はなくなっても、見た目の美しさや動線の絶妙さゆえに残された所作もあったはず。

そういうものが長い年月をかけて、人から人へ伝えられていくうちに、いつしかその意味を問うことが許されなくなった。それはたぶん、聞かれた方が答えを持っていないからでしょう。

どこかで、疑問を持たずに丸のみした代があって、丸のみしたせいで答えを知らないままになってしまった。そうなると、次の世代に問われても答えることはできません。そこで出てくるのが「いちいち、頭で考えずに、とにかく丸写しで覚えなさい」というやり方だと思うのです。まずは形を覚える。考えるのはその次でいい、というわけです。

 

このやり方は、あれこれ理屈を考えるのが苦手、もしくは好まないタイプの人たちにはうってつけだったと思うんですね。身体の動きは反復練習で身につきます。何も考えずに何度も繰り返せば、身体は覚えてしまう。どうかすると、まったく別のことを思っていたとしても、手は勝手に動いてしまうものなのです。

道はそこからだ、というわけです。

 

私は「わらべうた」を習う過程でこれととてもよく似た思いをしました。

「わらべうた」というのは本来は子ども同士が遊ぶときに歌うものです。

昔は、子どもは子ども同士で遊ぶものでしたから、自然発生的に生まれた歌がたくさんありました。

「かごめかごめ」や「はないちもんめ」などかろうじて今でも通じる歌はありますが、そのほとんどは、時代の変化とともに消滅していきました。子どもが集団で遊ぶということがどんどんできなくなってきたからです。少子化もそうですし、学歴社会もその一因だったでしょう。「遊んでないで勉強しなさい」と叱咤激励するのが親の仕事になってきたのです。(そのくせ、子どもたちが外で遊ばないと嘆くのですからダブルスタンダードもいいとこです)

歌われなくなったわらべうたはどんどん消えていきました。私だって子供の時に遊んだわらべうたは、「はないちもんめ」くらいです。子どもの世界での遊びは変化が激しいし、時代の変化によって、意味がわからなくなった歌は消えていかざるをえません。

 

そのわらべうたを掘り起こし、次世代の子どもたちに伝えていかなくては、という使命感を持った人たちがいるんですね。私が習っているわらべうたも、そういうところが採集し教えているものなのです。

実存し、現役で歌われているわらべうたではなく、民話でいうところの再話、つまり改めて集められた歌ですから、地方がバラバラです。東北、北陸、関東、東海、近畿、四国、九州、日本全国のわらべうたを教えてくれるのですが、その出自について留意している感じはありません。十把一からげに「わらべうた」として扱っているのです。そうなると当然、知らない言葉、聞いたことのない方言がたくさん歌詞に出てくるんですね。そして、長い間歌い継がれたことによって音が変化してしまっているものも多い。

となると、歌いながら自分は何を言っているのかわからない、ということがしょっちゅうあることになるのです。付随する手遊びや動きも、なぜそういうことをするのか、どうしてそういうルールになっているのかは不明なことがほとんどです。まあ、日常の遊びの中から生まれてきた動きなのですから、明文化されたルールがあるわけではないことくらいはわかります。

でもね。やっぱり、最初は何かしらの理由や意味があったと思うんですよ。

「このほうが面白い」とか「このほうがやりやすい」とか「これはこういう意味だから」とか。

全然そういうものがなくて、でたらめに発生したとは思えません。

 

で、つい、「これってどういう意味ですか」とか、「なぜこういうふうにやるんですか」ってなことを聞いてしまうわけですね。

するとかえってくる答えはいつも同じで、「そういうことは考えなくてもいいのよ」「自然にやればいいの」です。

実は今日も勉強会があって、その場で同じようなやりとりがあったものですから、ついに異議を唱えてしまいました。

自然に、って簡単に言われるんですが、あなたのいう「自然」と私の「自然」が同じ保証はどこにもないではないかと。考えなくてもいい=いちいち考えるなと言われても、意味も分からずに覚えていては、人に説明できないと思う、と。

私は、自分がわらべうたで遊ぶために教えてもらっているのではなく、おはなし会などで子どもたちに「昔の遊び」として教えるために勉強しているのです。もしくは、乳幼児とその親対象の「わらべうたあそび」の場で、親に教えるために習っているのです。

そうやって、「日常の遊び」ではなく「教えてもらって伝える遊び」になってしまったからには、ある程度は言葉の意味や動きの意味を教える側がわかってなくてはいけないと思うのです。

 

でもたぶん、今日教えてくれた人も、ほかに参加していたおばあさまがたも、そういうことをいまだかつて考えたことはないのでしょう。何も考えず、「そういうものだ」と丸のみしてきたのだと思います。

むしろ、丸のみこそ褒められるべき態度である、と思ってきたのではないでしょうか。

いちいち上の人が言うことに異議を唱えない。文句を言わず言われたままに行動することこそ是である、という思想。

おおげさかもしれませんが、なんだかそういうことを感じてしまいました。

 

乳幼児は経験も知識も少ないですから、教えられたことはそのまま模倣します。最初はそうやってデータを増やしていくものです。

でもだからって、いつまでも「子供は言われたとおりに覚えるものだから」ということにあぐらをかいて、考えることを禁止するというのはよくないと思うのです。

その場で事細かに説明する必要はないかもしれない。まずは覚えてあとでゆっくり考えればいい。

でも、最初に疑問を持った時に、「そういうことは考える必要はない」と否定してほしくないのです。

教える側にそれなりの答えがわかっていれば、その答えを教えるべきか、教えるならいつか、あるいは自分で考えていったほうがいいのかが判断できます。人に教えるというのはそういうことだと思うんですね。もっと言えば、たとえ教えるほうが答えを知らないとしても、一緒に考えていこうと導くことだってできると思うのです。

 

私がわらべうたや昔話を教わっていていちばん嫌だなあと思うのはこの点なんですね。

子供たちと一緒に遊ぶのは楽しいんですが、習う時がどうもしっくりこない。

伝わってきた言葉は正確にとか、音程は正確に、とうるさくいうわりには、言葉の意味はわからなくていいというし、動きの意味や意図も不鮮明なままだったりします。でもそのことについて疑問を持つことが許されていない。

今日なんて明らかに揶揄されましたからね。

「そんなこと考えるなんて頭が良すぎるのよ」

頭の良し悪しの問題じゃないと思うんですけども。

この問題は、わらべうたや昔話に関わった最初のときからずーっと自分の中で解決しないままでいます。

私がこだわりすぎなのかなあ。

でもね。意味なんかわからなくてもいいんだ、というなら、どんな音だってよくなってしまいませんか?

その言葉、その音である必要はなくなってしまうんだから、もっとデタラメだっていいってことになってしまいませんか?

この疑問に答えてくれる人、一緒に考えてくれる人は今のところ見つかっていません。

そういうこと、考えないのかなあ、ほかの人は。