10月のあなたはブロンズランクでした! | 10月の蝉

10月の蝉

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ブログスタンプを10日分集めるとシルバーランクに昇格するよ。

▼10月のあなたはブロンズランクでした

むむっ?

またしてもブロンズランクのスタンプをもらってしまったのだが。

ネタに困った時に、ブログネタで書いたことがあるから、そのせいなのかしら。

ヨクワカリマセン。

「てへ」みたいな顔マークですな(笑)

なにが「てへ」なんでしょうね。

 

毎日、とりとめもなくいろんなことをふわふわと思いながら生きております。

新しいお話を覚えようと思って、4つばかりチョイスしてみました。

そのうちの2つは「夢を見てるときに魂が抜けだす」という話。抜け出した魂が蝶になるかありになるかの違いです。蝶になるほうは、それを見ていた友達にぶったたかれそうになって焦った、という話で、ありの方は、実際はありがスギナにのぼっていたんだけど、大きな杉の木にのぼってる夢を見てた、という話。

夢というのは、ほんとに不思議な現象だと思いますね。

私も、見ていた夢のほうがリアルに感じられてしまうことがよくあります。あれ?さっきの話はどうなった?と寝ぼけた頭でうろうろしてしまうんです。

 

もう一つの話は、ネットで拾ったんですけども、「節分の鬼」という話。どこのお話なんですかね。

身内をなくして寂しく暮らしていたおじいさんが、節分の日に、あちこちの家から追い出された鬼たちを自分の家に招き入れ、にぎやかに過ごすという、節分の日の鬼救済の話。同時に淋しいおじいさんの救済にもなっているところがミソでしょうか。人の寂しさということを考えさせてくれるお話です。

 

そしてもう一つ。「さるのひとりごと」という昔話。どうやら岡山のほうの昔話らしいんですけど、不条理というか、理不尽というか、吹き抜けていくような寂しさを感じさせてくれる話。

絵本だと、司修さんが絵を描いたものがあります。こちらは文章が詩のようで、絵もすてきなので、これはこれで読み聞かせに使いたいなと思うんですが、それとは別に語りでもやってみようかと思いまして。

松谷みよ子さんが再話したものは、流れるようなしゃべり口調で、絵本から受けるような理不尽さは少し弱まっています。その分、びょうびょうとしたさみしさが流れる感じなんですね。

先日、1年生の子どもたちに絵本のほうを読んでみたところ、「はあ?」という反応でした。まあ無理もないんですけどね。

海にやってきた猿がいい気持ちで独り言を言っていたら、小さな蟹がそれに「うん」と返事をするんですね。猿はそれが気に入らなくて(絵本だとそう解釈できるような流れになっている)、蟹を「びしゃん」と潰してしまう。この擬音語がけっこうインパクトがあります。

蟹をつぶしてしまうと返事がなくなりました。ところが猿はそれが寂しいと思い、つぶした蟹を団子にして石の上に置くんですね。するとその団子が「うん」と返事をする。猿はご満悦でまた山へ帰っていくのです。

最初この話を読んだときは、その結末に「え??」と思いました。

猿の横暴さにびっくりしたのです。返事がうるさいといって自分で潰しておきながら、今度は返事がないといってさみしがる。挙句の果てには潰した蟹を団子にして返事をさせる。さらには、また来るからそのときにも返事をしてくれよ、と頼んで山へ帰っていく。なんて自分勝手なやつなんだろう、と少々腹が立ちました。

子どもたちもおおむねそんな反応でしたね。「猿は自分で蟹をつぶしたのに」という感じ。

 

なんともすっきりしない終わり方なんですが、なぜかずっと心にひっかかっていて、気になるお話なのでした。語るほうのお話はもうちょっとマイルドになっているし、なにより、猿が蟹をつぶす理由が絵本と少し違っていたのです。絵本では確信をもって蟹をつぶすんですが、本だと「もしかしてお前か?」と確証のないままつぶしてしまうんですね。で、つぶしたあとに返事がないことで、「やっぱり蟹だったのか」と思う。

そのうえで、返事がないのはさみしいなあと感じるので、ちょっと猿に共感する部分が出てくるのです。

まあ、どっちにしろ、「また来た時は返事してな」と頼んで帰ってしまうので、おいおい、と思ってしまうわけですが。

蟹にはなんの落ち度もないのに、いやむしろ、相槌を打ってやったのに、なんとも理不尽な仕打ちを受けます。それなのに、それでも返事をしてやる、っていうのは、なんなんだろうなあと思うんですよ。

優しさ? というよりも、ある種の不気味さすら感じてしまいます。

そういうはっきりしないところに惹かれてしまうのかもしれません。

 

読み聞かせやストーリーテリングやわらべうたに触れるようになって改めて思うんですが、昔話やわらべうたや子守歌って、残酷ですね。これはもうなにをどう言い繕っても残酷です。それはたぶん、それらが成立した社会状況や時代がそういう状況だったからだと思います。

昔話の背景には、貧困や差別があります。格差も厳然として存在する。わらべうたは、子どもが歌うために、今ではなにか「よいもの」のように思われていますが、歌われている内容や言葉をよく見てみれば、残酷なことがたくさんあります。子守歌にいたっては、あれは、奉公人として買われてきた子どもや、自分の意思とは関係なく長子で生まれてしまったために弟妹の世話を義務付けられてしまった子が、その境遇を歌にしてまぎらわせているものなんですね。だから歌詞が「早く寝ろ」ばっかり(笑)

それを「残酷じゃないんですよ」とか「もう言葉の意味は考えなくてもいいんですよ」とごまかすからおかしなことになるんじゃないかと思うんですよ。

世の中にはつらいこと、残酷なことがたくさんある。あるいは、昔はこんな残酷なことが当たり前に存在していたんだということを知る。そのために昔話やわらべうたを伝える、という意識を持つことも必要なのかもしれない、と最近思うようになりました。

まあ、男尊女卑の思想や、男女格差を肯定しているような内容のものは、私は積極的に語りたいとは思わないですけどね。完全に排除しようと思うと、語れる話がなくなってしまいそうなのが悩みの種です。

滑稽話や夢の話、ほら話あたりがいいかなあなんて思っているんですけどね。

 

ということで、ブロンズランクとは全く関係ないお話でした。てへてへぺろ