怒鳴るおかあさん | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

今話題の絶叫暴行の議員さん。

テレビをつけてると、不意打ちのようにその音声が流れてくることがある。

耳を覆いたくなるような罵詈讒謗。汚いだみ声。

でも、私の中にある不快感は、彼女への嫌悪感だけではない。

それは、油断して歩いていたときにふいにガラスに映った醜い己の姿に気づいたときのような不快感でもある。

どこかで聞いたことがある、あの叫び声。あの口調。あの感情の色。

 

あれは私だ、と思った。

今でこそ毎日わりと穏やかに過ごしているけれども、息子がまだ幼かったころ、私は毎日のようにあんなふうに怒鳴っていた。

そうすることがよくないことだ、というのはわかっていたから、極力自分を抑えるようにがんばっていた。

でも、2,3歳くらいの子どもはこちらの想像をはるかに超えるようなことをやらかす。

毎日、というレベルではなく、毎時間、毎分、くらいの感じ。

始めはなるべく静かに諭す。言い聞かせる。やってみせる。ほめる。おだてる。

そのうちにそれではどうにもならなくなる。でも我慢だ。怒ってはいけない。叱るのだ、冷静に、冷静に、冷s…………ドッカーン!

我慢していた分、腹の底から怒りが吹きあがってくる。本当に「はらわたが煮えくり返る」のだ。

おなかの下の方からどんどん熱いかたまりが突き上げてくる。言葉が止まらない。止まらないどころかどんどんエスカレートする。

 

手を出してはいけない、という理性だけはかすかに残っていた。そこまでやったら終わりだと。

だから物に当たった。足を踏み鳴らした。当たらないようにクッションを投げつけた。

(今思えばそれだって立派な暴行だし、虐待だと思うが)

そして声はどんどん大きくなり、言葉はどんどんきつくなった。子どもが泣くまで怒鳴った。泣いても止められなかった。憤怒の発作だった。

あとからものすごく落ち込んだ。少し時間が経ってから子どもに謝ることが多くなった。

 

ひどい親だったと思う。

 

最近はさすがにそんなことはしなくなった。怒る材料がなくなったというわけではないのだが。

むかし、なんであんなに怒ったり怒鳴ったりしてたんだろうなあ、とつらつら考えてみると、たぶん不安だったんだろうと思う。

怒るネタは基本、「しつけ」と呼ばれる分野のことだ。片付けをしない、とか、着替えをしないとか歯磨きしないとか、夜更かししてるとか。今思うとほんとにたいしたことじゃなかったんだけど、当時はそうは思えなかった。今ここでこれができないと将来碌な人間にならないんじゃないか、人の道を外れてしまうのではないか、そうして、そんなふうにしか育てられない私が親失格、人間失格の烙印を押されてしまうのではないか。書いてみてちょっと笑ってしまうけど、でもあのころはけっこう本気でそう思っていた。

子どもの言動のすべてを親がコントロールし、方向付けをして、形成できる、とどこかで思っていたのだろう。子どものしつけは親の責任、子どもがだめなのは親がだめなのだ、と心のどこかで信じていた。

他人にはそんなふうには言わないのに、自分に対してはそう思ってしまっていた。

 

だから、子どもが私の思い通りに動かないことが許せなかった。

どうしていい子でお片付けしないのだ、とか。どうしていい子でご飯を食べないのだ、とか。日常生活のすべてのことで、私は子どもを自分の思い通りの「いい子」にしようとしていた。

しかし、子どもは私ではないから、当然私の思い通りには動かない。そのことにいら立ち、「こんなことをしていたらダメな人間になってしまわないだろうか。私が親として出来損ないであると非難されないだろうか」と怖くてたまらなかった。

ふだんは一応理性で押さえつけているんだけど、その分鬱屈がたまるのか、一度爆発すると止められなかった。

 

怒るのは疲れる。

そして、疲れるわりには効果は少ない。

息子は私が怒鳴り散らすことから逃れるために表情をなくし、すべてを聞き流すようになった。

そのことに気づいてから、私は少しずつ怒鳴る、怒るをやめるように努力しはじめた。

腹の底が煮えくり返ってきたら深呼吸する。あるいは、その場から離れて頭を冷やす。

そして、第一声を低く静かなトーンで始めるようにする。

怒鳴り声というのは自分をも煽るので、一度怒鳴りだすと自分の声でさらに興奮してしまうのである。

だから、静かな声と言い方を、がんばってやってみる。そこさえ静かに始められれば、そのあとヒートアップすることは少ないし、たとえヒートアップしてもすぐに落とすことができる。

 

そういうふうにやっていくうちに、だんだん「あ、これ、言ってもしょうがないな」と思うことが増えた。

宿題の着手が遅いとか、だらだらとユーチューブを見続けているとか、ゲームがなかなか終わらないとか、気になることはいろいろあるけど。

 

でも結局他人事だ、と思ったのだ。

 

彼の人生は彼のものであって、私が代わりに生きるわけじゃない。

もう乳幼児でもなく、児童でもない。昔なら元服が近づいているような年頃である。

あとは自分で自分を育てていくしかないんじゃないか。

ぎゃんぎゃん怒鳴った所で私が疲れるだけで、なんにもいいことはない。

息子が成長してきたことと、私の中で諦めがついたことが重なって、今の私は怒鳴ることをしなくてすむようになった。平和だ。

 

それだけに、あの音声は過去のどす黒い不安な日々を思い出させた。

あんなふうだったなあ、という過去の汚点に対する恥ずかしさ。

 

不安、っていうのはほんとに恐ろしい感情だなと思う。それが攻撃に転ずることすらあるんだから。